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齋藤祐平インタビュー
特集
執筆: 石井 香絵   
公開日: 2010年 12月 24日

fig. 1 第23回公園コンサートの様子 2010年

    齋藤祐平(1982-)の活動を知ったのは2010年8月、神田神保町のギャラリー・路地と人でのグループ展『Circle X』を観た時のことだった。齋藤祐平、淺井裕介、及川さやか、郡司侑祐、stomachache.、NANOOK、二艘木洋行をメンバーとするこの展示は、多数の小品絵画が中心ながらも込み入った印象は無く、それぞれの作風が絶妙なバランスを保っていた。初めて観る作家がほとんどだった私は、まだまだ自分の知らない良い絵を描く人が沢山いることを実感し、本展の出品者であり企画者でもあった齋藤に興味を抱くようになった。

    『Circle X』についてはいつか記事にしたいと考えていた。しかし、むしろ興味はこの作家の活動全体へと広がっていった。齋藤はこの夏個人的に最も印象深かった展示のひとつ、平間貴大個展『第1回平間貴大初レトロスペクティブ大回顧展』の企画者であったこと、9月に行われたislandでの展覧会『NEO NEW WAVE』で齋藤の作品を多数目にしたこと、その関連イベント『公園コンサート』[fig.1]に立ち会うなどの状況が重なったためである。自らも絵画を量産し、キュレーションや音楽イベントまで行う現在の幅広い動きがどのように生まれたのか知るため、10月某日、齋藤のアトリエでインタヴューを行った。


メディアアート系の学科に進んでも結局絵を描いていた

齋藤は2001年春、故郷の新潟を離れ東京工芸大学芸術学部に進学した。専攻はメディアアート表現学科。しかし入学してみるとさほど興味が持てない分野だったことに気付いたという。


齋藤: その時はクリエイティブっぽいものに憧れて、かっこいいプロモーションビデオが作りたいと思っていました。でも、いざやってみるとそんなでもなくて。絵は昔から好きでずっと描いていて、学部のコースに興味を無くしてからも描き続けていたから、ふるいにかけるように自然と絵を描く行為が残った感じです。卒業制作は単位のために事務的に作りました。赤外線センサーを使った映像作品なんですけど。何なのかは自分でもわからないです(笑)。

fig. 2 『ODDS & ENDS』♯10 2004年

fig. 3 ≪ファスナー≫ 2003年
ボールペン|21.0×29.5cm

大学のキャンパスが厚木(神奈川県)の山の方にあったから、上京したとき自分の実家より田舎だったことに驚いて…とにかく都会に出たいと思ったんです。それで『ODDS & ENDS』というフリーペーパー[fig.2]を作ってお店に置かせてもらいによく東京に行きました。いろんな場所に足を運ぶ口実にもなるし。『散歩の達人』という雑誌のフリーペーパー特集に掲載されたこともあります。※1 初めて展示を企画したのもフリーペーパーを置かせてもらったことがきっかけです。大学3年の時に、Taxxaka(高橋辰夫)さんと泉沢儒花さんがやっていた経堂のappelというギャラリーカフェで、小林亮平さんと森千裕さんに声をかけて3人展を企画させてもらいました。あとappel の他にも、伊東篤宏さんと藤本ゆかりさんが経営していたOFF SITEというギャラリーもフリーペーパーを毎号置いてくださったので嬉しかったです。展示は大学でもやりました。最初は貸してくれる場所がなかったから、夜中にしのび込んで空きロッカーにゲリラ展示したり。それから『スキマの凹凸』という展示タイトルで、その時はちゃんと許可をとって三畳くらいの空き部屋で作品展示をしました[fig.3]。あとは学部の卒展とは別に自分たちでも何かやりたいということになって、友達が見つけてきた目黒区美術館区民ギャラリーという場所でグループ展をしました。

―学生時代に影響を受けた人や出来事はありますか?

齋藤: 影響を受けた人は…あまり思いつかないなあ。伊藤存さんのワタリウム美術館での個展は3回くらい観に行ったけど。自分の作品と結びつけて観ていたわけではなかったし。大学からの影響も特に。ただ、あの環境だったからフリーペーパーを作っていたという状況的な話はありますけど。

―表現を続けることについて迷ったことはありますか?

齋藤: 描くことを辞めようと思ったことは無いです。経堂での3人展の後、好きだったギャラリーに絵を見せに行ったことがあるんだけど、あまり良くないことを言われて。今思えば当たり前なんだけど、当時はかなり落ち込みました。でも、その時も辞めようとは思わなかったですね。辞めるわけにはいかないという気持ちがあったから。それからはしばらく模索の時期が続いて、前まではモノクロのペン画ばかり描いていたけど、以後は絵の具を使ったり、なんでも試すようになりました。

昔から勉強は出来ないわけではなかったけど、そんなに好きではなくて。地理は好きだったけど。運動はあまり得意ではなかったです。それでも絵だけはなぜか上手くなっていく感覚があって。たとえば数ヶ月間何もしなくても、描いたら上手くなってる感じがしていました。


齋藤の「描くことを辞めようと思ったことは無い」「辞めるわけにはいかない」という思いは、卒業後の旺盛な活動へと展開していく。




毎月一回何かやると決めた

齋藤: 卒業後はとにかくバイトを沢山して、2005年の秋に二ヶ月間ドイツとチェコを旅行しました。好きな作家がドイツに沢山いて、特にジグマー・ポルケ(Sigmar Polke)とディーター・ロス(Dieter Roth)の作品が観たかったので。主要都市は大体まわって、美術館か博物館に出かけていました。あとはその都市の動物園に開館から閉館までいてずっとスケッチをしたり。それはすごく良い経験でした。とにかくいっぱい絵を描こうと思って、本とかも持って行かなかったです。600枚くらい描いたかな。


そして帰国後、齋藤は活動の転機となる個展を行っている。


―2006年2月に個展をされていますね。

齋藤: 帰国後に高円寺の「素人の乱2号店」で開催しました。古着屋なんですけど、壁にキャンバスを展示して。全部卒業後の新作です。

―素人の乱※2 とはどんな風にしてつながったんですか?

齋藤: 卒業を期に高円寺の近くに引っ越してたんですけど。素人の乱にはその年、2005年の6月くらいに知り合いに連れて行ってもらいました。高円寺にはただライブハウスが多いという理由で越したんだけど、東京に出てきたばかりで友達もそんなにいなかったし、遊びに行ける場所があったのはありがたかったです。ドイツから帰った後もちょくちょく顔を出してて、それで「素人の乱2号店」を経営している山下陽光(ひかる)さんに展示をさせてもらえないかとお願いしました。

―個展の成果はどうでしたか?

齋藤: 知り合いが何人も来てくれましたよ。個展をきっかけにいろんな人と接することが出来たし。ただやっぱり一番大きかったのは、陽光さんと沢山話が出来たことですね。会期中に夜明けまで話すこともあって、その時に「齋藤くんはもっともっと面白いことができると思う」と言われて。それが後の原動力になりました。陽光さんの存在はすごく大きかったです。人が思いつかないようなことを考えるのが上手い人だから。…はっきり言って全然才能のない奴だったとしても、そいつががむしゃらに動きまくってるのが好きみたいで。出来あがった作品への興味だけではなくて、その人の勢いを評価するようなところがあって。多分陽光さんは僕の絵には特に関心が無かったと思う…というか、分からなかったと思います(笑)。でも「齋藤くんが一生懸命何かをやっている感じ」がすごく好きだったみたいです。そういう評価の仕方に疑問を持つ人もいるかもしれないけど。

その個展の後、僕は陽光さんの「もっともっとできるよ」という発言に思い切り乗っかって、毎月一回何かやるということを自分の目標にしました。

―どんなことをされたんですか?

齋藤: 『LONG LIFE』という木版画のフリーペーパーを作って高円寺近辺の自販機の下に隠して、「今隠しました」とmixiにアップしたりとか。とにかく何かやらないといけないけど、発表する場所も無いし、自販機の下でも何でもやらないとと思って。陽光さんは「お、また何かやってる」と喜んでくれて。陽光さんに向けてやってるような面も実はあったりして。

―自販機の下以外にはどんなことをされましたか?

齋藤: 大体フリーペーパーです。『TOKYO』っていうフリーペーパーを作って大阪にばらまくとか。ポストの上とかコインロッカーに放り込んだりしました。あの頃はやたらやる気がありましたね。あとは陽光さんがやってた「場所っプ」っていう、夜10時からただ路上で飲んでるだけの場所でフリーペーパーの交換会を何度か開催したり。2006年はそんな風で、今振り返ってみればトレーニング期間でした。月イチの活動を通してイレギュラーな場所で何かやるという経験が自然に積み重なったので、その時のことは今も活きています。2006年はTaxxaka(高橋辰夫)さんのつながりでグループ展に参加したこともあったけど、そんな感じで地味に活動していました。

あと、その年は東京都現代美術館で開催された『大竹伸朗 全景1955-2006』展に何度も行きました。僕、『全景』展の一番最初の観客になったんですけど。10月の半ば頃にインディペンデント・キュレーターの東谷隆司さんにお店で偶然会ったことがあって。「東谷さんの文章が好きで読んでます」と声をかけたら、「ちょっと話そうよ!」と言われてビール5本くらい頼みだして(笑)。そこでいろいろ話してた時に『全景』展の話題になって、「俺ら一番最初の客になんない?」と言われて。それで前日の昼11時くらいから美術館の前でずーっと待ってました。

―前日の11時…!そんなに早くから並ばなくても一番になれたのでは!?

齋藤: イベントみたいな気持ちがあったから。仕込み道具を沢山準備したら荷物いっぱいになっちゃって、もろ展示が超楽しみで田舎から上京してきた風になってしまった。一人でずーっと待ってて、8時間くらい経って次に来たのが僕の彼女だった(笑)。前日だから夜はレセプションが行われていて、坂本龍一とかが通り過ぎるのを外から見てました。会田誠さんが出てきて、僕の方を見てにこにこしてた。東谷さんは夜の10時くらいに来て、東谷さんの呼びかけで集まった人たちとも合流して一緒に夜を明かしました。『全景』展には本当に何回も通いましたね。

でもあの展示ってすごく体力消耗するから、初日に観終えた後へとへとになりながら隣の木場公園でやってた物産展でモツ煮とビールを買って、彼女と美術館前で食べてたんです。そしたら大竹さんが現れて!びっくりして、「展示良かったっす!」とかいろいろ話しかけたんだけど。その後大竹さん、『新潮』に僕のこと「一番最初に『全景』展に来た若者の話」として書いてくれたんですよ。※3

―それはきっと、大竹さんも嬉しかったんだと思います。


とにかく何かしなければいけないという思いが、大学卒業後の齋藤の活動を形作っていたようである。この時期の精力的な活動は、翌年の「Night TV」、「聞き耳」の結成へとつながっていく。


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脚註
※1
「特集2 恐るべし!フリペ大襲来」『散歩の達人』2003年1月号、交通新聞社、84頁。なお、『散歩の達人』は首都圏のタウン情報誌。

※2
素人の乱とは高円寺北中通りを中心にリサイクルショップや古着屋などの店舗を展開し、PSE反対デモなどの活動で知られるグループ。現在の活動についてはhttp://trio4.nobody.jp/keita/を参照。

※3
大竹伸朗「見えない音、聴こえない絵 第35回」『新潮』第103巻第21号、新潮社、2006年12月、265頁。また大竹の単行本『見えない音、聴こえない絵』(新潮社、2008年12月)の138-139頁にも掲載されている。

最終更新 2015年 10月 27日
 

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