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松井沙都子:a ghost
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 6月 26日

松井沙都子”a ghost”展会場より(gallery neutron) 画像提供:gallery neutron
撮影:表恒匡|Copyright © Satoko MATSUI

    幽霊を見たことがない。幽霊を見るというのは、存在しないはずの人物が見えてしまうことである。存在するのに見えない「不在」としての存在は、幽霊を見ることができない者に見ることの限界を感じさせる。そこにありながら見える人と見えない人がいるということ。このまなざしが認識する存在の不一致は不平等だが、この見ることの不確かさ、存在の希薄さは何も幽霊に限った話ではないだろう。そう、それが例え絵画であったとしても。

    松井沙都子の絵画は幽霊のような存在の希薄さをまといながら、画面全体に強度ある堅牢さで存在している。だが、画面全体に人体の一部分と思われるドローイングが描かれた絵画を幽霊ならぬイメージのショッキングさのみで片づけてはならない。たしかに、松井の2007年の個展『THOM』(2007年4月2日~14日Galley wks.)での、ぬいぐるみが破壊、加工され、痙攣するように振動する衝撃的な作品は、イメージに引きずられる点がある。だが、注意深く見ればただの不快感目当ての作品ではないことは、白いボックス内にショーケースのように展示されたところから、作品と展示との冷静な距離を感じることができるだろう。

≪a ghost≫2009年|撮影:表恒匡
画像提供:gallery neutron
© Satoko MATSUI

≪a ghost≫左作品部分2009年|パネル、パール顔料、アルミパウダー、アクリル|1621×1303mm
撮影:表恒匡
画像提供:gallery neutron
© Satoko MATSUI

    本展では松井はドローイングした線を周到にサンプリングするという手法を試みている。サンプリングされた身体のパーツはもはやそれと認識できないまでに加工され、線の勢いは消え、無機質な線として私たちの前に姿をあらわす。だが、線の解体・接合により現れた画面からは、さまざまな濃淡、ストロークが部分に伺え、ドローイングそのものが「死んで」しまったわけではない。そう、絵画の肉体性・身体性から遠く離れた地点で実現されたこの絵画は、「幽霊」のように「身体性を欠いた身体」※1として存在している。

    さらに、松井の絵画の強度を補完しているのが下地である。周到に作り上げられた下地の上に地の色面が見る角度により照明の光の屈折を私たちに送り返す。そして、丸い点がオールオーヴァーに画面に描かれ、下地とドローイングがレイヤー上に重なり、絵画面が構成される。ここでは、「図」であるドローイングが「地」である下地に飲み込まれているかのようである。だが、飲み込まれてしまった絵画の身体=図は、微かに輪郭を残し「生きて」いる。この何かをあらわしているようで、かたちにならない曖昧さはバラバラになった空虚な「身体」として私たちに存在の不確かさを問うのだ。

≪a ghost≫2009年|パネル、パール顔料、アルミパウダー、アクリル|1621×1303mm(100号)|撮影:表恒匡|画像提供:gallery neutron|Copyright © Satoko MATSUI

    たしかに、サンプリングされたドローイングは、イメージを正確に捉えることができないため、見る者にストレスや不安感を与えるかもしれない。だが、見る者を画面内へと侵入するのを拒むように見えながら、画面が視線を受け止めるのは、この下地の完成度の高さに他ならない。この端正に作られた下地の美しさがあるから、このドローイングが生きるのだ。それは、「幽霊」が確固とした現実に現れることと同じだ。その時、私たちは見える絵画を通して、身体を持たない幽霊を見ているのかもしれない。その存在に不安に駆られ、慄きながら。

脚注
※1
松井沙都子<アーティストステイトメント>、本展会場配布の資料より。
最終更新 2015年 10月 24日
 

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