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東島毅:絵画 光をまげる
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 6月 18日

「東島毅展 -絵画 光をまげる-」INAXギャラリー2会場風景|画像提供:INAXギャラリー2

    ただただ黒い、ぐにゃっと途中で曲がっている絵画らしきものが、展示室のほとんどいっぱいに設置されている。東島毅の≪光をまげる—緑≫(油彩・キャンバス、H67×W481×D763cm、2009年)である。アクリルで描かれているにも関わらずそれを絵画と呼んでいいものか留保せざるをえないのは、その作品が曲がっているという一点につき、そこからは絵画とは平面であるという一般認識に対する異議申し立てを見て取れる。しかしそうした絵画への批評性だけでこの作品を捉えてもいいものか。

    壁に掛けられ、向かい合う鑑賞者の鈍く、朧げな像を作り出すアルミニウム製の≪光をまげるとき≫(アルミニウム、H77×W57×D5cm、2009年)が示しているように、東島の作品は光が重要な役割を担っている。しかし≪光をまげる—緑≫を見れば、光は画面に吸収されることによって逆説的にその存在を立ち上がらせていることが明らかだ。光沢のある黒っぽい画面に天井からのスポットライトの光が沈み、散っている。その作品はこの会場でみる限り、光によって見え方が大きく変化する類いの作品ではない。展覧会のチラシでINAXギャラリー顧問の入澤ユカは、国際芸術センター青森での展覧会「東島毅展 絵—PICTURE」(2008年)を引き合いに出しつつ、「東島はマーク・ロスコと酷似した五感と体感を持っているのだと思った」(「東島毅展 絵に落ちて」)と書いているが、自然光が入り込んだり、その作品のために作られた空間ならともかく、ビルの一室に位置し、取り立てて特徴のないINAXギャラリーではその一端に想像を巡らせるのみである。≪光をまげる—緑≫は、光を自身のうちに呑み込みあたかも栄養分のごとく吸収する、その蓄積によって巨大化したかのような印象を私にもたらす。印象派を例に出すまでもなく光を表現することを求めて止まない絵画が、限界を超えてそれを摂取してしまった結果、破綻を来して折り曲がってしまった。そう、想像させるのだ。

「東島毅展 -絵画 光をまげる-」INAXギャラリー2会場風景|画像提供:INAXギャラリー2

    INAXギャラリー2での「東島毅展 絵画—光をまげる—」(2009年6月1日〜7月11日)は、タイトルに「光をまげる」という印象的なフレーズを含んでいる。「絵画」が先行していることから、「絵画」が主語であり、「光をまげる」が述部であると考えられる。この述部が、「光がまげる」ではないことは重要である。つまりここでは光が絵画のマチエールに視覚的な変化をもたらすのではなく、絵画が光のあり方を変化させるものとして想定されている。既に書いたように、≪光をまげる—緑≫は7メートルにもなる長大な画面が途中から折れ曲がっている。絵画とは光を描くものであると仮定すれば象徴的な意味でキャンバスを曲げているのだと解釈できるが、その曲がった絵画に光を当てることで、当の光を絵画上で屈折させることに本旨があると私は解したい。

    ただ、それだけが目的であればあの大きさでなくても構わないのではないか。つまり重要なのはやはりスケールであり、絵画と呼ぶことが適当なのか戸惑うほど作品と対峙した時の感情は言い難く、解釈しようといくら言葉を連ねても、そのもの自体が持つ存在としての確かさに届かない。それこそ、絵画への批評性だけでこれらの作品を捉えることの疑念を発生させたものである。言葉を使うしかない私はそれが歯がゆくて仕方がないが、だが理解の及ばないものを突きつけることこそ美術の一つの役割でもある。作品のある空間に身を投げ出せ。知らなすぎることは問題外だが、理論武装し、わかったふりをしてもいけない。何が描かれているでもない、巨大な、しかも、曲がっている絵画。現時点で理解の範囲外にあるこの作品を、いつか私はわかる日が来るのだろうか。その日が来なくても構わないと思う。


参照展覧会

展覧会名: 東島毅:絵画 光をまげる
会期: 2009年6月1日~2009年7月11日
会場: INAXギャラリー2

最終更新 2015年 10月 24日
 

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