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今津奈鶴子 展
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 6月 11日

fig. 1 「今津奈鶴子展」(GALLERY b.TOKYO)展示風景 画像提供:今津奈鶴子|Copyright © Natsuko IMAZU

fig. 2 「今津奈鶴子展」(GALLERY b.TOKYO)展示風景 画像提供:今津奈鶴子|Copyright © Natsuko IMAZU

fig. 3 今津奈鶴子≪宙≫2009年 油彩|130.3×162.1cm|画像提供:今津奈鶴子|Copyright © Natsuko IMAZU

fig. 4 今津奈鶴子≪ちいさな世界≫2009年 油彩|162.0×194.0cm|撮影:加藤健|画像提供:今津奈鶴子|Copyright © Natsuko IMAZU

     土や水、その中で息づく草花[fig. 1][fig. 2]。今津奈鶴子が描くものは私たちの多くが見たことのある、なんでもない光景だ。写実的、ないし写真のようだと言われればそのとおりだが、そういった言葉で理解した気になると零れ落ちてしまう魅力がその作品にはある。今津の作品は、熟視することでそれらがまとっている〈なんでもないもの〉という皮膜が剥がれていき、そのもの自体の未知性が立ち上がる。つまり、光景としては一見なんでもないものだが、それは本質的な意味においてもなんでもないものであるわけではない。

     たとえば、≪宙≫(油彩、130.3×162.1cm、2009年)[fig. 3]を見てみよう。描かれているのは水面と土、そこに点々と生えているなにかの新芽である。たゆたう水面の中に丁寧に描かれているその存在は、あまりに自然でありむしろそれゆえに新鮮なものとして私の目には映る。ほぼ真上からの構図が、今私がまさにそれらを発見し、覗き込んでいるかのように思わせることも一因だろう。≪ちいさな世界≫(油彩、162.0×194.0cm、2009年)[fig. 4]も同様である。大胆にも前景にエノコログサを配置することによって、私が今まさにそこにおり、その狭間から現場を見ているかのような錯覚を引き起こすのだ。

     そう、それを今見ているのは私ただ一人である。私だけが、蝶が花の蜜を吸い、落ち葉が浮かび、雨が水面に波紋を作り出しているささやかな世界の目撃者である。今津の作品は暗い色調のものが多く、加えて水の描写が多用されている。そのことが、私をあたかもその世界に沈み込ませるのである。動植物レベルでのちいさき存在と、それらを包括する自然という巨大な存在両方を見つめる作家の眼差しが、私にはとても魅力的だ。端的に言えばアニミズムということである。特定の神や仏への信仰ではなく、自然界のあらゆるものに霊魂や精霊の存在を認める態度が、今津からは感じられる。

     現在の日本でアニミズムを積極的に表現に取り入れ、最も成功しているのはアニメーション作家の宮崎駿だろう。宮崎が監督し、1997年に公開したスタジオジブリの『もののけ姫』で物語の大きな核となっていたものが人間と自然の対立である。そこでは森林が神のすまう場所として活写され、自然は人間からの畏怖と敬意が織り交ぜになった存在として描かれていた。『もののけ姫』に限ったことではないが、宮崎駿監督作品で重要なことは自然と比較し人間を上位のものとして描いていないという点にあり、その感覚は今津と通底するところがある。だから私は、現時点では見出せない自然の恐ろしさや凄みが、今津の作品にいずれあらわれることも期待している。

     今津の作品と、一般的に現代美術と呼ばれる作品との間には大きな隔たりがあるかもしれない。しかしそれは言うまでもなく、今津の作品の質の低さを意味しない。私が今津の絵画に見るのはアニミズム観の上質な発露であり、思い起こすのは洋画家・高島野十郎(1890〜1975)や日本画家・福田平八郎(1892〜1974)といった自然に対する優れた眼差しをもった先人たちの作品である。それは個性を履き違え、つまらない自己表現を羞かしげもなく披瀝する現代美術作家の作品より、よほど表現として成立している。1984年生まれ、2009年3月に武蔵野美術大学大学院美術専攻油絵コースを修了したばかりと若いが、流行に惑わされることなく、その表現を追求して欲しいと思う画家である。


参照展覧会

展覧会名: 今津奈鶴子 展
会期: 2009年5月25日~2009年5月30日
会場: GALLERY b.TOKYO

最終更新 2010年 7月 05日
 

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