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吉永マサユキ:ちょッカン
レビュー
執筆: 平田 剛志   
公開日: 2009年 6月 01日

東京・浅草橋のCASHIにて行われた<吉永マサユキ:ちょッカン>は、2003年に刊行された写真集『族』(リトルモア刊)の写真を新たに再構成・展示したものである。写真集刊行から6年の歳月を経て、このシリーズを再び見ることにどのような意味があるのだろうか。

そのきっかけとして今展で展示されている路上を走る暴走族のバイクを捉えたブレた写真を見てみよう。このブレた画面を撮ることができるほど至近距離にいて撮影できるのは、彼らと並走している者だけしか撮ることができない。そう、吉永は暴走族である若者たちと並走している。このブレこそクリシェとしての「暴走族」ではなく、現実に生きる暴走族の若者たちを撮影することができた「距離」なのである。

≪神州連合 青空集会 -1025≫2001年 Type C-print|1200x1500mm|ed.3
© Masayuki YOSHINAGA|画像提供:CASHI

1981年に制作された相米慎二監督による『セーラー服と機関銃』という映画がある。劇中、ヤクザの組長となった薬師丸ひろ子を林家しん平演じる組合員ヒコが暴走族のバイクを借り、薬師丸を後ろに乗せ、夜の新宿の街を走る映像がある。カメラは2人乗りをするバイクを正面から長回しで撮り続ける。画面は手持ちカメラによって、バイクのスピードと夜の闇のせいかフォーカスがブレながら、高校生でヤクザの世界に入ってしまったこの若者たちの心の揺れを捉えている。走り続けるうちに、しだいに効果音は消え、周りを並走していた暴走族のバイクも枝分かれして散り散りとなり、薬師丸と林家が乗ったバイクだけが画面に残る。そう、まるで世界にはこの二人しかいないかのように。ここには若さの、未来への不安定さが、夜の路上にカメラを向け、ただ見つめることで表現されている。

ドキュメンタリーを思わせる手持ちカメラによる長回し撮影という技術的に困難な条件の中で実現されたこのシーンは、ヤクザという文化圏をコミカルな劇画的クリシェを使いながらも、映画全編をロングショット、長回しを多用したことで東京という都市に生きる若者とヤクザという普通ならば出会うことがない人々が織り成すドラマとして描き出した傑作であった。 『セーラー服と機関銃』で描かれていたものは、現実世界とヤクザの世界の異質さ、それぞれが所属する集団の文化観の違いであった。

『セーラー服と機関銃』というタイトルが示すように「セーラー服」の世界、「機関銃」の世界に所属する人間が出会ったことで起こるドラマだった。そして吉永の今展タイトル「ちょッカン」もまた二つの意味を持つ。それは、「直感」であり、「直管」(消音マフラーがないバイク・車のこと)である。転じて、暴走族集団におけるオートバイの「爆音」である。そう、サイレンサーがなく、むき出しになった「ちょッカン」マフラーから発せられる爆音こそ、吉永マサユキの写真に他ならない。この言葉、文化の複数性こそ、世界そのものだ。

この異質さを排除することなく、見つめること。聞くこと。その意味で、この写真は「暴走族」の写真ではない。これは私たちの住む世界の写真なのだ。異質な文化集団に反発でも敵意でもなく、見つめるカメラを持つこと。今展の写真は再びそのことを見る者に問いかけている。

最終更新 2016年 10月 09日
 

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