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大野綾子 展「ON」
レビュー
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2010年 11月 26日

fig. 1 《o nの為のドローイング》2010年
40×30×∞cm|紙、火、ゴム、綿布|撮影:若林勇人

fig. 2 《o n》2010年|30×90×15cm|砂岩
撮影:若林勇人

fig. 3 《o n》2010年|70×60×50cm|大理石
撮影:若林勇人

fig. 4 《o n》2010年|25×230×20cm|砂岩
撮影:若林勇人

    大野綾子の彫刻を楽しむには、時間をかけるべきだ。展覧会場に何日も居なくてはいけない、ということではない。作品を観た後に、その細部を一回忘れるような長い時間が必要なのだ。今回書くレビューは、半年前に開かれた展覧会のものである。今になって書くことにしたのは、記憶が曖昧になってきたからこそ逆に作品を明確に捉えられるようになったと思えるからだ。
    展示されていた作品は石の彫刻3点と、1点のドローイングである。彫刻作品のタイトルは全て《on》。展覧会場の入り口付近の壁に貼られた、《「on」の為のドローイング》(紙、火、綿布、ゴム、2010年、40×30×∞cm)は、原稿用紙の上に小さな穴を開けた白い紙を被せ、ゴム紐を通した作品だ。これを観たのち、半地下になった展示空間へと階段を降りていく。
    彫刻の一つ目の《on》(砂岩、2010年、30×90×15cm)は、引き出しの取っ手か楽器のつまみのように、※1 デザイン化された弧の形。両端が床に刺さっている。石の素材が、金属製の部品を触った時の冷ややかさやなめらかさを思い起させた。次の《on》(大理石、2010年、70×60×50cm)は、垂直に立てたラッパのように、上に向って膨らむ姿だ。大理石の表面は、ラッパを唇に当てて音を出す時の感触を思わせる。どちらの作品も幾何学的な形だが、抽象的というよりは何かの部品の一部を思い起こさせる形態だ。フォルムが美しく削ぎ落とされ、同時に手作業が生んだ輪郭線は絶妙にゆがみ、少しずつ触れながら形を確かめていくような感覚を呼び起こす。触感的な造形だ。最後の《on》(砂岩、2010年、25×230×20cm)は、長い管の両端が地面に刺さっているような形態。独立させて見ると無機質だが、他の2点と共に観ると何かの機械の管か、ガードレールか、何処かで観たものの一部のように観えてくる。
    そう思い、改めて半地下になった展覧会場を階段の上からぐるりと眺めてみた。そこには、日常生活の中で観たものの一部が意識の境界線から浮かんでくるような、あるいは潜っていくような風景が広がっている。忘れてしまったものが記憶の中から浮かびあがってくる時の様子か、まさに忘却されようとしている時の姿のようである。素材の質感と、視線でなぞりたくなる形態が、体感的にも記憶を呼び起こしていくのが面白い。彫刻のフォルムのシンプルさは、まるで生活の中で見ていたモチーフのディテールを忘れた結果として生じたもののようだ。観ていると、日々の生活の中でいつしか忘れてきたものたちのことも思い出され、自分の記憶の無責任さに軽くショックを受けるだろう。しかし同時に、作品の形の美しさから、忘れていたディテールは自分にとっては余計なものだったようにも思えてくる。そして、自分なりの眼差しで捉えたものが朧でも美しい像を結ぶという、気持ちの良い錯覚に陥っていく。

    時間が経つと、人は様々なことを忘れていく。それでも残ったものは、正確な形ではないけれど、自分だけにしか観ることのできない美しい形かも知れない。慌しく過ぎていく毎日の中で、知らないうちに過去になっていた時間が愛おしく思えてくる。作品の姿が朧になった今、私は再びこの作品たちを観たくて仕方ない。また、《on》というタイトルから作品の設置面のことを考えてみると、この彫刻には床の下にも続く観えない部分が想定されているように思えてくる。観えない部分は鑑賞者に委ねられているのだろう。総てのものが観えていると過信しないで、もう一度作品を思い出したくなる。彼女の作品の鑑賞は、観た後、永遠に続いていくのかも知れない。

脚注

※1
2010年4月5日に開かれたオープニングパーティーにて大野に作品モチーフを聞いたところ、楽器の部分であるが、観る人にそれを具体的に知らせたいわけではないという意向を聞いた。ここでは、作家の意思に沿って筆者の個人的な視点から作品の形態を記述したことを記しておきたい。

【参照展覧会】
大野綾子 展「ON」
会期: 2010年4月5日~2010年4月17日
会場: 秋山画廊

最終更新 2010年 11月 27日
 

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