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大舩真言:Principle
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2009年 5月 01日

fig. 1 大舩真言≪VOID Ψ≫2009年 岩絵具、顔料・和紙 Φ260cm 2009年|撮影=表 恒匡 (neutron gallery)
© Makoto OFUNE / Courtesy of gallery neutron

fig. 2 「大舩真言展 Principle」(gallery neutron)展示風景|撮影=表 恒匡 (neutron)|© Makoto OFUNE
Courtesy of gallery neutron

fig. 3 「大舩真言展 Principle」(gallery neutron)展示風景|撮影=表 恒匡 (neutron)|© Makoto OFUNE
Courtesy of gallery neutron

fig. 4 「大舩真言展 Principle」(gallery neutron)展示風景|撮影=表 恒匡 (neutron)|© Makoto OFUNE
Courtesy of gallery neutron

    物質性と身体性。大舩真言展「Principle」(gallery neutron、2009年2月17日〜3月1日)の展示作品と空間構成からキーワードを挙げるとすれば、以上の二点になる。

    しかしこれらの言葉から、大舩をアクション・ペインティングのジャクソン・ポロックよろしく〈描く〉という行為=身体性をそのまま作品化する作家ととらえてはいけない。なぜならここで言う身体性とは、画面に定着した作家とカンヴァスとの格闘の痕跡としてのそれではなく、後述するように鑑賞者の身体にほかならないからである。そして物質性とはそうした〈描く〉という行為、作家という主体が消された地点で立ち現れる、まさに〈物質〉としか言いようのない大舩の作品のありようを意味している。つまりここでの物質性とは前述したアクションとしてのペインティングに見られる絵具の激しい筆跡でもなければ(むしろ大舩の近年の作品は一見して穏やかなものが多い)、もの派と呼ばれる作家に見て取れる「芸術表現の舞台に未加工の自然的な物質・物体(いか「モノ」と記す)を、素材としてでなく主役として登場させ、モノの在りようやものの働きから直かに何らかの芸術言語を引き出そうと試みた」(峯村敏明※1)類のものでもない。大舩は「未加工の自然的な物質・物体」を主役として提示しているわけではないし、そこには作為がある。けれどもそれがきれいに掻き消されていると言えばいいか。だから私は大舩の作品を、〈日本画〉は言うまでもなく〈絵画〉はおろか〈平面〉と呼ぶことすら抵抗を感じるのである。事実、作品の縁を壁に打ち付けるというアクロバティックな展示で目を引いた、重さ60kgにも達するという半円上の作品《VOID Ψ》(岩絵具、顔料・和紙 Φ260cm 2009年)は、〈平面〉というよりは〈立体〉と呼ぶ方がふさわしいほどの質量を伴って浮かんでいた[fig.1]。

    だからこう言いたい気持ちに駆られる。大舩の作品は〈絵画〉ではなく、大舩真言という主体によって作られながらもその痕跡を秘匿された〈物質〉としか言いようのない存在ではないか?と。それは作者の匂いが希薄であるがゆえに、私たち鑑賞者をそれらが展示された空間に自然と入り込ませる。ただし取り違えてはいけないが、ここで私たちが最終的に入り込む空間はあくまで〈今・ここ〉の実空間であり、絵画としての虚空間ではない。もちろん作品は厳然とあり、その中に拡がる世界に入り込むことも可能なほどの奥行を大舩の作品は十分に内包している。だが作品はあくまで鑑賞者と実空間を繋ぐ媒介として存在しており、何より大舩の関心はそれによって展示空間内における鑑賞者の身体感覚に揺さぶりをかけることにこそ向けられていると私は思う。媒介は具体性を帯びていない、抽象的なものほどその役割を演じやすい。大舩の描く対象が具体的なイメージの創出ではなく、〈どこでもない場所〉に向けられていることからもそれは明らかだろう。

    大舩は空間構成感覚の傑出した作家である。先の《VOID Ψ》向かって右に展示された《WAVE #75》(岩絵具、顔料・和紙 70×116cm 2009年)は出品作品中唯一の額装作品だが、作品より一回り以上大きい黒い額縁がなかったなら、空間はきわめて平板なものになっていただろう[fig.2]。そしてそれら大作二点から視線を外していくと、壁面上部に計三点、小品が点在していることに気づく[fig.3]。さらにこれで終わりかと思えば、ギャラリーに隣接するカフェ内にも二点作品が展示されており、その発見ごとに自らが存在する空間が拡張されていく[fig.4]。

    全七作品に共通する暗い色調の画面を覗き込むことで得る、あたかも身体が海の底に深く沈んでいくような、あるいは闇に溶けていくような感覚。視覚を道標に、比較的照度の落とされたライトに照らされた空間で、私たちは視覚だけではない身体感覚を獲得する。今回の個展より先にneutron tokyoで開催された大舩の個展、「Prism」(2009年1月10日〜2月1日)はそのタイトル通り光の移ろい・屈折を想起させる白や青を基調にした作品が多く展示され、それらによって構成された空間は確かに美しく心地よいものだったが、それは「Principle」の深い闇の印象と比べるときわめて対照的なものだった。その場で開放された身体とどう向き合うか。それこそ、大舩の寡黙な作品が唯一私たち鑑賞者に投げかけた問いに相違ない。

脚注
※1
峯村敏明「モノ派とは何であったか」、『モノ派』展カタログ、鎌倉画廊、1986年

参照展覧会

展覧会名: 大舩真言:Principle
会期: 2009年2月17日~2009年3月1日
会場: neutron kyoto

最終更新 2010年 9月 14日
 

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