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貴志真生也:バクロニム
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 9月 23日

画像提供:児玉画廊

貴志は昨年に京都市立芸術大学を卒業、在学時より鉄、石、木材、廃材、電灯などの多様な素材を組み合わせたインスタレーションおよび彫刻作品を発表してきました。

昨年の個展「リトル・キャッスル」(児玉画廊, 京都)でデビュー以後、今年立て続けに参画したグループ展「京都オープンスタジオ」(GURA, 京都)、「きょう・せい展」(@KUA, 京都)、「鼻向け」(Antenna, 京都) などにおいては動きや映像を用いた表現や、他者の作品に介在するという本来の作品の性質とは異なる状況に敢えて挑むなど、常に可能性を伸展させながら精力的な制作活動を行っています。

「見た事のないもの」を作り出すという自身に課した命題に則って貴志の作品は作られます。それはつまり、自分が作り出すものに対して常に批判し、否定し、既視感の要因をこそぎ落としていくことで、未見の世界を構築せねばならないということに他なりません。「新しい」と形容されるものの大凡は某かの継承なり発展の元に成り立つことが常ではありますが、貴志の作品においてはそうある事は真っ先に否定されます。

初個展「リトル・キャッスル」は木材、ブルーシートやダンボールといった素材を櫓のように組み立てた、凡そ13m四方に広がる大掛かりなインスタレーションでした。しかしそれは「そのようにある」としか述べようもなく、あるいは「リトル・キャッスル」という僅かな手掛かりに縋ってあれこれ想像を巡らせるものの、空しく肩すかしを食らうような作品でした。木材が四方八方を取り囲むように伸び、あたかも西洋の城か砦のようなシルエットを成してはいますが、極端に形骸化された空疎な構造は城や砦の何をも表していないようにも思えます。時代や文化のあまりに懸け離れた遺物を前にした時のような得体の知れなさ、そしてその存在感だけがその空間を完璧に支配している状態に、ただ黙する他はありません。

今回の個展では「バクロニム」という言葉に一つの指針が示されています。「バクロニム」とは「V.I.P」のような単なる頭字語(アクロニム)とは逆に、まず省略形らしき文字列を用意して、それに単語を当てはめて意味を後付けする事を言います。貴志にとってあらかじめ用意されたコンセプト、テーマ、方法論の何もかもは制作に取りかかる為の手掛かり程度以上の意味を持たない、という事の換言であるように思えます。出来た作品を並べて関連と意味合いを後から考える、あるいは本当に意味など存在しないのにそれらしさを装って思わせぶりに振る舞っているだけなのかもしれません。

光る箱、ビニ ールに布を組み合わせたもの、木と針金の造形物など個々の作品は言わずもがな、こうした意味も意図も容易に掴めないものの羅列を、あたかも何らかを示唆するものであるような「そぶり」で見せられればその気になって受け止めてしまうのも已むなし、といった所は、貴志の良い意味での意地悪さでしょうか。

「null」とは最近作に付けられていたタイトルですが、受け手の勝手な解釈をすれば、恐らく、本来的なゼロというよりもむしろ「ゼロであること」を示している状態という逆説的なこの言葉は貴志の感覚を非常に良く表しているように思えます。「~であるようでいて~ではない」見る側が抱くこのジレンマは貴志自身のジレンマでもあるのです。

※全文提供: 児玉画廊


会期: 2010年9月25日(土)-2010年10月30日(土)

最終更新 2010年 9月 25日
 

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