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田中秀和:reconstructing creation
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 8月 19日

画像提供:児玉画廊 | 東京|Copyright © Hidekazu Tanaka

田中はこれまで平面作品における抽象表現、特に即興的でリズミカルな身体的動性を特徴とした画 面構成をひたむきに追求してきました。キャンバスに溢れる鮮やかな色彩、多層に重なった線の交 錯、刷毛や筆による伸びやかなストローク、薄塗りの絵具が生みだす透明感、グラフィティをも思 わせる軽快な構成、ただ純粋に身体が反応したかのようなその画面は、抽象表現の難解さを越えて まるで澱みなく我々の内面へと染み渡る力を持つかのようです。

昨年度、児玉画廊(京都)にて開催された「連続の要因」においては、「連続」というキーワード を軸に、過去に制作した作品をモチーフとして引用し新たな展開を模索しました。以前に描いた線 や形を一要素として抜き出し、それを元に連想される新たな色彩、形状を新作の画面に描き加えて いくことで時間的、意味的な連続性を作品間に生み出しましたが、それは繁殖や進化と同じように ある要素を時間や物理的な隔たりを超えて継承すると同時に新たな変化と発展を遂げる可能性の提 示であり証明でありました。単なるコピーではなく、またシリーズ的な曖昧なものでもなく、作品 個々の独自性に平行してイメージの明確な連続性を作品間に取り込んで見せたと言えるでしょう

今回の展覧会タイトルにある「reconstruct」とは、再建する、再構成する、再現するといった意を 持ちますが、その言葉通り、自身が過去に創造した作品から特定のある部分を一つのイメージとし て切り離し、そのイメージに拡大/縮小、反転、回転、増殖などの運動性を与える事で、似て非なる イメージを新たなキャンバス上に再構成します。従来の作品は、描く線の流れ、重なり、絵具の飛 沫といった様々な痕跡が示すように、まさに一筆書きの勢いの如き衝動に突き動かされて、一瞬の タイミングや偶然性を伴った形で描かれていましたが、こうした感情と運動から生まれた構成要素 は、最も自然な形での表現欲求の現れであるがゆえに、偶然の結果を委ねたイメージは荒く脆く、 言い方を変えれば未成熟な儚さを呈するとも捉えられます。その状況からさらに飛躍する手段とし て、音楽に準えて作家が言う所の「サンプリング」を行うことによって、生々しく衝動的な筆のス トロークや偶発性をソースとして自身の中に「読み込み」新たな画面上に「再生」することで、洗 練された構成と、絵画としての強度を獲得しようとしています。あるイメージを作品間でループ / シェアするという一見創造性の放棄とも取られかねないこの手法は、意識 / 無意識の問題、「抽象」 的なものを描くと言う行為自体のオリジナリティについて、作品と自身の主体と客体の関係性など、 田中が自身に問う「抽象」という概念に対するさまざまな命題を我々にも投げかけるものです。無 意識に発生した行為を意識的にコントロールし、偶然を必然の要素として、イメージの瓦解と構築 を作品上、あるいは作品間で繰り返すことによって、田中独自の抽象表現が生み出されていくのか もしれません。

イメージは繰り返し再生される。 その都度表情を変える様は、遺伝現象のように感じる。
(田中秀和)

如何に偶発的な点であり線であっても、視覚は具象的なイメージを模索し像を結ぼうとします。本 展において田中はそれに抗うように、固まりかけたイメージを壊し、迷走の果てに新たなイメージ の固着が見られればまたそれを力ずくで解放していく、その際限のない反復行為、そしてそれに平 行するように行われる、あるイメージの継承による進化と再生のプロセスに着目しました。抽象と して描かれたイメージをソースとして扱う事は具象的意味合いを持つのか否か、新たな議論を孕み つつも漸進的な抽象表現の創出という独自の一歩を踏み出した田中秀和。過去の衝動に再び向き合 うことによって感情的な表現を自ら読み解いて一要因として昇華し、新たな段階へと押し上げよう とする作家のこの葛藤は、同時に大きな期待値と展望を示してもいるでしょう。

※全文提供: 児玉画廊 | 東京


会期: 2010年8月21日(土)-2010年9月18日(土)

最終更新 2010年 8月 21日
 

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