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早川祐太:認識の境界
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 4月 14日

《apple》 2009年 PET bottle, water and string, 6.15x6.15x18cm photo: Ken Kato (C)Yuta Hayakawa 画像提供:gallery α

αMプロジェクト2010「複合回路」は3人のキュレーターによる企画展、田中正之企画。 「認識の境界」
立体的造形にしても平面的イメージにしても、あるいは日常的に目にする現象にしても、それらは決して自律的、自足的に存在しているのではなく、ある任意の「見る主体」の存在を前提とし、そしてその主体によって「見られる対象」となっている。しかし、この両者(見る主体と見られる対象)の間の「まなざしの交換」には、いかなるノイズも屈折も介入してこないスムーズな結びつきが成立しているのだろうか。むしろ、関係は非常に危ういバランスの上に成り立っているのではないだろうか。その危うさを、時に私たちは自分たちの見ているものの識別のあやふやさを暴露されることによって実感できることがある。 そのような、認識があやふやとなるようなゾーン(=境界)を積極的に制作の対象としてとりあげ、「見る」という行為のあり方を根源的にわれわれに問いかけてくる作品がある。そして、そのようなぎりぎりの領域(=境界)を問うことによって、その粗(あら)をむき出しにされた「まなざしの交換」は、どのようなものであれ関係の構築がはらむある種の軋みといった問題へと、それこそまなざしを向けさせるのである。 もっとよく見なければならない。 田中正之
早川祐太の代表的作品には、たとえば2009年にワコウ・ワークス・オブ・アートで発表された《about us》 がある。薄い平面のようなものが宙に浮かんでいる作品だ。一本のワイヤーで吊るされているように見えるのだが、しかし、そのワイヤーは明らかに重心にはなく、不思議な場所にある。いったいどうバランスは取られているのだろうか。そう思ったとたん、作品から目が離せなくなり、引き寄せられ、釘付けにされ、じっと見続けざるをえなくなる。 でも、何を見るのだろうか。この装置の、装置としての仕組みや巧妙さだろうか。宙に浮かんだ平面は、四角形のような厳格な幾何学形ではなく、まるで水面のような不定形な広がりを見せる。そしてそれは、宙のなかを漂い、揺れ動き、静止することはない。空中のなかを静かにゆっくりと動く水溜り。われわれは、浮遊し、たゆたう物体の姿を、まさにその現象のなかに見る。目が離せなくなるのは、この現象のほうからなのである。 まず、じっと見る。自分の眼前にある現象をこそ、凝視する。すると、我々の認識が、ある境界線を越えるように感じられてくることがある。早川祐太の作品の力の源は、すべてここにある。今回の作品《The moon is a big rock》では、水の広がりと、水面に浮かぶ輪を、われわれはじっと見つめることとなる。水は、本当にさらさらの水なのだろうか。実はもっと粘っこい液体が使われているのではないのか。輪はどうしてどこかに流れて去ってしまわないのか。でも、どうしてそう見えるのか。見ればすべてが分かるということは、やっぱり無いのだ。見ればみるほど、視覚も認識も混乱せざるをえなくなる。その混乱のなかでこそ、われわれの観察眼はさらに鋭敏になり、研ぎ澄まされ、自分たちのいる世界をもっと見極めようとする。もっともっと、よく見なければならないのだ。物体を、ではなく、現象を。
  そうだとすれば、作品として提示されているのは、もはや物体ではないのだろう。物体が置かれている空間が作品となる。だが、それはインスタレーションの作品になるというのは、いささか異なる。早川の作品は、決して展示空間を変容させはしない。そこに流れている空気、風、時間、あらゆるものの佇まい。こういった現象の生(なま)のままの姿が、作品と立ち現われてくるのである。立ち現われてくるまで、われわれは、もっともっとよく見続けなければならない。 The moon is a big rock 早川祐太
あの夜空に浮かんでいる光の事を月と言うらしいのですが(一番光っている光です)
先日イタリアの友人がどうやらあれは石ころであって、とても大きいのだというのです。それもとてつもなく。
しかもそれは浮いているそうで、しかも光っているわけではないらしいですよ。
よくもまあそんなうそをつくものです。しかしこれでわたしの天を見上げる楽しみが一つ増えました。
世の中にはまだまだ変った人がいそうなのでもう少し旅を続ける事にします。
  小さな声と対話しながら構成していくとその小さな声はしだいに共鳴し合い、私を離れて踊り始める。しかしそこで起こったりすることは凝視すればするほど拡散していく。確かだと思えるものはゆっくりとゆっくりと(一瞬にして)拡散しつづけ次第に空間にとけ込んでいく。なくなるのではなく、そこに残るのは意識の中に残ったかすかなイメージと自分ともの。
そのイメージを紡ぎ合わせて何かを生もうとする瞬間、ふとそれは何も生みださないという事なのだろうかと同時に感じたりする。それは決して取り残されていっているという事ではなく、何かに包み込まれていくような感覚に近い。何かに満たされたような場所。それはそのままにしてその中をさまよってみる。凛とそこにいるはずなのにその所存が確認しきれないもの。対面しているものに背後から見つめられているようなそんな存在があるのかもしれない。そんな中に私はどのように存在しようかと想いを巡らせてみるがそんな事は必要ないかもしれない。私はそんな大きな流れの中に身を任せ、彼らと同等であろうとする。決して引く事はなく押す事もなく。
私が追い求める超越的なものの起源というものは私を基準としたら見られないものなのかもしれない。ちょうど自らの姿を自ら見れぬように。だから私はまず私の造った水面に自分の姿を映してみようと思う。そこから何かが始まる事を感じながら。
  はやかわ・ゆうた
1984年岐阜県生まれ。2008年武蔵野美術大学彫刻学科卒業。2010年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻彫刻コース修了。主な展示に、2010年「5th Dimension」フランス大使館旧庁舎(東京)、「スチューデントナイト」blanClass(東京)、2009年「from/to#5」WAKO WORKS OF ART(東京「) NO FUTURE, NO FUTURE」Art Center Ongoing(東京)、「Re:Membering - The Next of Japan」Alternative Space LOOP(ソウル、韓国)、2008年「アートプログロラム青梅̶ポストシアター」青梅市街(東京)、「plastic trees / ceramic girl」CAMP/Otto Mainzheim Gallery(東京)など。
  ※全文提供: gallery αM

最終更新 2010年 6月 05日
 

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