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島崎蓊助:セピアに込めた執着と解放
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 2月 04日

《市庁舎(リューベックにて)》1970年 oil on canvas|60.6×72.7cm|画像提供:ヒロ画廊 copy right(c) Ousuke SHIMAZAKI

島崎蓊助は1908年に文豪・島崎藤村の三男として生まれました。しかし母の死を契機に2歳で藤村のもとを離れ、長野県・木曽福島の親戚の手で育てられます。13歳で藤村のもとに戻り、兄の鶏二と共に川端画学校に通いますが、二人は対照的な道を歩むことになります。兄鶏二はフランスへ留学、その後画檀にて早くより人気作家となり華々しい活躍をしますが、弟の蓊助は戦前には前衛芸術革命のプロレタリア美術運動に傾倒、その後ドイツに渡り千田是也らとバウハウス周辺の芸術運動に没頭します。戦時中は中国の戦場を描き、戦後は藤村全集の編纂と、その画業が公に評価されるのは全集の編纂に区切りが付く1970年を待つことになります。 藤村全集の編纂を終えた蓊助は1970年にベルリンを再訪し、セピア色の作品を約30点描き上げました。自らの画業の集大成と言えるこのセピアでの表現は、1947年から書き初め、生涯で実に164冊を数えた『ノオト』におけるあくなき芸術研究の到達点といえます。 蓊助はこのセピアを「孤独の色」と呼びました。家族、社会、芸術と逃げることのできない大きなものに対して常に真剣に挑み続けた作家が、自らの表現を託すためにたどり着いた色です。セピア色の「光と闇」のみで描かれた画面には、蓊助の芸術論、自画像と呼ぶべき精神と軌跡が集約され、厳しさの中にある優しさ、闇の中にある希望をみることが出来ます。 本展では、1970年にドイツにて制作されたセピア作品約30点のうち、貴重な油彩とドローイング約10点を紹介します。

作家略歴
1908年 島崎藤村の三男として東京に生まれる。
1910年 長野・木曽福島の親戚に預けられる。
1921年 父、藤村の元へ戻る。翌年、兄鶏二とともに川端画学校に通い始める。
1925年 村山知義と知り合い、プロレタリア美術運動へ参加。
1929年 ドイツへ渡り、千田是也らとバウハウス周辺の芸術運動に没頭。
1944年 中国に渡り、主に戦場のスケッチを行う。
1945年 兄鶏二が戦死。湖南省にて岡本太郎と出会う。
1948年 新潮社『島崎藤村全集』(全19巻)の編集に携る。以後、全集の編纂にめどが立つ。1970年まで父・藤村の残した膨大な資料や未発表の原稿の整理に追われることとなる。この年から思想・美術研究のための「ノオト」を書き始める。
1963年 詩の同人グループ「歴程」において、「歴程賞」の創設に尽力。
1970年 ドイツに約半年滞在し、ドイツ風景の作品制作を行う。約30点の作品を完成させる。
1971年 前年のドイツの作品に手を加え、生前唯一の個展となる「島崎蓊助個展」が東京・日本橋の柳屋画廊にて開催される。
1979年 「会田綱雄作品展」に作品を出品する。
1992年 心不全のため83歳で逝去。
2002年 大川美術館にて「描かざる幻の画家 島崎蓊助 遺作展」が開催される。

※全文提供: ヒロ画廊

最終更新 2010年 2月 22日
 

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