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変成態-リアルな現代の物質性:Vol.8 半田真規
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 1月 18日

《白浜青松原発瓢箪》2005年 児玉画廊/東京 画像提供:gallery αM

「裂け目を見せる表層空間」天野一夫
この連続展観のかたちをとった企画展の最後の部屋を半田真規という卓抜の才能をもった気鋭の作家で締めくくりたい。半田にとっても物の実態は確かに存在しているものではなく、常に揺れ動いているものであろう。 半田は様々な土地の風景から受ける感覚を作品制作の契機としているようなのだが、そこではいわば次々に展開するスリリングな場に全感覚を開き自らの身体を投じることで、世界がどう立ち現われてくるかを待つかのようである。 自身の感覚を更新する初な現場がここでは露出しているのである。そしてその感覚刺激は常に外部からやってくるのである。であるから、そこで差しあたって展開する作品においても、具体的な物が持ち込まれる時も、他の意想外なものが組み合わされながらに、そのイメージ世界から抽出された一つの雛型であるのだろう。そこでは出自も異なり、また大きさというものも掴めない、全体で不可解な場となることが多い。混交されたイメージ界から投射された空間は現実の物を扱いつつも物からの論理に従うことなく、むしろ位相の異なりを常に保持していて、一元的な感覚で統一されていない。 そのような違和を抱え込んだ仮構的な場による作品は野放図なほどに荒々しい破壊的な場にして不穏な関係を持っている。一つの雛型のようなイデア世界の映し身にして、亀裂の入った鋭利なものに満ちた世界。それは通常の「美しさ」ではなく、直接的に我々の感覚を掻き回し見たこともない不条理なものとなるだろう。 今回は設置前の構想段階だが、あの日本独自の住宅外壁材のボードを用いたものと聞く。むろんこれはだまし絵的なものではないだろう。コンクリートの壁に張り巡らされた、躯体と切り離された様々の素材たち。その見事なダミーとしての触覚感は我々が住まうための確からしさの保証なのだ。しかしここに物は無い。表層にして重い、着せ替え可能な様々の素材感は、これまでの多様な光景の断片が一つに折り重なったものなのだろうか。 想像するに、様々の物質(?)が接合し分裂してわれわれの感覚をたきつけながらも、クラッシュしたような、違和をたたえた奇妙な空間。その中で、我々はどのような断裂の感覚に立ち会うだろうか。 

コメント:半田真規
アイデアや行動は誰もが持ち得ているもので、それをどのように扱うか、それとどのように接するかという所で違いが出てくる。
僕はこれまで美術という方法をとってやってきた。
この世界は様々な言葉で構成されている。
ものや事に名前があるように世界はあたかもずっとそこにあるかのように見せつける。
しかしその言葉の隙間から裏側を見ると、そこは吹きさらしの現場である。
美術も言葉には変わりない。しかし一つの言葉に収まらない展開を持っている。

作品というものを介す事で様々に変化し、時に拡散して意味さえ無くなる、自然現象のような性格を持っている。
それは物事を見る時に役立つ。僕にとってはアンカーのような働きをしてきた。
多分自分が美術というものを選んだ理由はこのあたりにある。
現場はとても広い。
先人がどこでこの技に美術という言葉を使い始めたかはわからないけれど、僕なりにその方法で確かなものを見て行きたいと思っている。
吹きさらしの現場から何か面白いものを見つけてみたいと思う。

半田真規 はんだ・まさのり
1979年神奈川県生まれ。2003年東京藝術大学美術学部卒業。主な個展に、2005年「白浜青松原発瓢箪」(児廊、東京)、2009年「逆テーパーの肖像」(ベルリン)など。グループ展に2006年「越後妻有トリエンナーレ」(中里、新潟)、2007年「夏への扉-マイクロポップの時代」(水戸芸術館現代美術ギャラリー)など。プロジェクトおよびプログラムに2008年「ロレックス メントー&プロトジェ アートプログラム」(欧州)、2009年「点線」(キオッソーネ東洋美術館、ジェノバ)など。
公式HP http://www.handamasanori.com 第3回シンポジウム 「近代を遠くながめて」
パネリスト:田中正之、金氏徹平、半田真規 + 天野一夫
日時:2010年3月27日(土) 16時~18時、会場:gallery αM  入場無料・予約不要 ※全文提供: gallery αM

最終更新 2010年 2月 27日
 

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