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石原延啓:deer man
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 11月 15日

≪deer man≫2009年|カンヴァスにアクリル|227.3x162.1cm|画像提供:日動コンテンポラリーアート

石原は自身の存在が多層的な世界の上に成立っていると仮定して、無意識の領域から湧き出てくるイメージを元に抽象的な絵画を描いてきました。そして「古事記」の黄泉の国の項で記述されている「比良坂」のイメージに魅了され、重層的な世界をゆるやかに繋ぐ「境界」をテーマに制作しています。ここ数年は、時の経過と共に侵食され閉ざされていった過去の記憶が幾重ものレイヤーとして重なり合う現代の都市の深層をたどるパイロットとして「鹿男 –deer man-」を登場させています。鹿は世界中で神(自然)と人間、生と死の境界を行き来する使者として象徴的な存在です。石原のdeer manは私たちに代わって都市の隙間へと潜り込み、そこで目にする世界を表現していきます。

神話の森へ
絵画が知の産物になったのは、いつの頃からだろう。展覧会の会場に入り、作品を目の前にしたとき、傍らにある題箋や解説のパネルをまずは確認するといった行為は、美術鑑賞が正に「教養」として捉えられている証左であろう。一方で、モダニズム芸術の原理は、ひたすら作品の自律性を謳い、なかんずく題箋や解説などというテキストの補助なしでは成立しないような作品は、排斥の憂き目にあってきたこともまた事実だろう。この相矛盾した状態を抱えながら、モダニズム芸術は、すでに百数年の月日を経た。

石原延啓の作品において、自身の神話などへの傾注から、一種の主知的な行為から逸脱すべく、「deer man」なる想像上の生き物が、茫漠とした世界を彷徨う。近代の社会は、予測不能な現実をして、言わば「予断を許さない」というコードを人々に植え付けた。制度化された秩序がありながら、いやだからこそこのコードは、強迫観念のようにストレスを人々に強いる。一方で、もう一つの「予断を許さない」世界=自然において、同様のストレスは微塵もない。むしろ自然への同化への本能がわき上がり、疲労すら心地よい。

神話とは、そもそも人工的なものであり、自然のカオスを隠喩化したものに過ぎない。無論前提となるこの自然も所詮は、コード化されたものであるのは言うまでもない。とは言え、この壮大なるトートロジーにあって、この隠喩化の豊穣は、生半可な物語より強烈なリアリティを有している。

所詮は、再生と死の繰り返しにすぎぬとは言え、石原の「deer man」が遭遇する未知なる世界との遭遇は、言葉=テキストでは変換出来ぬ経験を約束してくれるかもしれない。
天野太郎 (横浜美術館 主席学芸員)

また、11月20日金曜日18~20時には作家を迎えてのオープニング・レセプションを開催いたしますので、是非ご来廊いただけましたら幸いです。

全文提供: 日動コンテンポラリーアート

最終更新 2009年 11月 19日
 

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