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小金沢健人:メモ
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 11月 02日

画像提供:ヒロミヨシイ copy right(c) Takehito KOGANEZAWA

映像やドローイング、さまざまな素材を用いたインスタレーションやパフォーマンスなど、小金沢健人は多様な表現媒体を自在に駆使して、純粋な時間的持続のうちに、知覚の消失点のきらめきを残していく。小金沢の作品において経験可能なあらゆるものは、根源的で、浸透的で、拡散的である。「He Talks So Much Without Saying Anything(2003年)」と題された作品では、三つの映像に様々な人物が登場し、身振り手振りを交えて、口笛を吹いたり奇声を発している。それぞれ99パターンの映像がランダムに流れ、99×99×99 通りの組み合わせが生まれることで、意味をなさない奇妙な光景が、ときに密度の高い感情表現として凝縮する。作者にも制御不能な偶然性に委ねながら、まるでこの作家だけが知る映像の和声法や対位法が存在するかように、リズミカルな映像と音のシンタクスが繰り広げられている。 原初的な感性的経験をさらに細かく切り刻み、異なるイメージを多相的に重ね合わせる小金沢の手法は、患者の身体に一切手術の跡を残さない有能な外科医や、経験的対象を基本的単位に還元し操作可能なものとする科学者に近い。しかし、それがどのように巧みかつ緻密で痕跡を残さないものだとしても、自然的経験を一度断片化して再構成する小金沢の作品は、傷跡のない、均整の取れた、ハンサムなフランケンシュタインに違いなく、つるりとしたその相貌の背後には、謎めいた不安、いつか全てがばらばらに裂けてしまうのではないかという、不穏な予感めいたもの漂わせている。

小金沢は自らの制作上の意図について、「対象から意味を洗い落とすこと」と語っている。しかし、洗い落とされるのは概念的な意味や論理的な規範性よりも前に、まずは概念に付着する生理的なものや肉体的なもの、土着性や風俗性といった雑多な感覚であり、そこでは身体性は希薄化され、クリーンでデオドラントな無重力の遊戯的空間が立ち現れる。小金沢の作品では彗星の尾のように、様々な形象の「運動」が繰り広げられるが、「身体」がないという矛盾が生じている。 多彩で幅の広い表現活動にも関わらず、小金沢健人がビデオアーティストとして世界的に認知され、またビデオアートの文脈においてこの作家を語ることに意義があるのは、映像の存在論的な次元との関わりにおいて、小金沢の映像作品が先鋭的な存在となっているからである。それは「映像のヴェール」をめぐる問いと言い換えてよいだろう。映像は、被写体のもとの衣服を剥ぎとり、それに別の衣服を被せてしまう。このあたらしい衣服は、映像のヴェールである。ふわりとヴェールをはおって、写し出された存在は浮遊する。この映像の存在論的次元に関わる問いは、マイケル・フリードが「芸術と客体性」において、映画はどのような作品でも、絵画や彫刻や音楽や詩が努力によって到達しなくてはならない「演劇性の克服」を「いわば自動的に」達成している、と述べた問題に通底している。今日に至るまでビデオアート呼ばれる営為の可能性は、こうした問題圏に対してどのような態度をとるかによって決せられる。 映像の黎明期を語る挿話の一つとして、蒸気機関車が直線的に駅に進入してくる映像を上映したとき、客席の方に迫り来る列車に驚いて、観客が思わず席を立って逃げ惑ったというエピソードが残っている。こうした神話は、映像こそがもっとも迫真的な再現を可能にする表現手段なのだとして、ハリウッドの映画産業につながるスペクタクル化の技術としての、映像史の起源をなしている。この史上初の映画とされる「ラ・ シオタ駅への列車の到着」は、運動と時間について自覚的な取り組みを続ける小金沢が最も好きな映画の一つとして挙げているが、小金沢の作品が指し示す映像の可能性は、こうしたスペクタクルの系譜とは異なる位相に見出される。 そもそも映像装置が開発される前提になったのは、ファラデーによるストロボスコープ作用の研究と、フェヒナーとニーチェによる残像効果の研究だった。ストロボスコープ作用によって切り刻まれた現実を、残像効果によって連続的に再構成することが映像の原理をなしている。人間を視覚と聴覚と機械性とに分解する映像の次元は、全体性をもった観念を無数の断片に裁断し、無重力の浮遊する空間に放り出すのである。 われわれの存在はもはや、ネットワークシステムのインターフェイスに過ぎないのではないか。人間は、センサーあるいはアルゴリズムとしてしか存在しないのではないか—。小金沢の制作物がもたらす所在のない不安は、直接的には生理的なものの過小に由来するが、根源的には、ある種の情報工学的な存在論的認識に関わっている。小金沢において、映像は「メディア」であり、知覚対象は「情報」なのであると極言すれば、身体性なき運動というパラドクスを了解する糸口となる。「静止した時間と動き続ける時間の間に、作品はあります」と小金沢自身が語るように、身体性は映像の持続のなかに消失していくのである。

「鉛筆、紙、机、椅子」(2004年)、「数を忘れる」(2006年)に続き、hiromiyoshiiでは3回目の個展となる本展では、映像、写真、ドローイングが、三つのスペースに独立して展示される。近年、アメリカ、ブラジル、インド、オーストラリア、ギリシャなど世界各地で作品を発表してきた小金沢は、日本においても大規模な個展に取り組み始めている。現在、世界的な注目を集めるこの作家が、日本の観客に差し向ける独自の表現空間に、是非目を凝らして頂きたい。

小金沢健人
1974年東京生まれ。ベルリン在住。主な個展に、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館「MIMOCA'S EYE vol.2 小金沢健人展 動物的」(丸亀市)、神奈川県民ホール「あれとこれのあいだ」(横浜)、資生堂ギャラリー「君の頭の中で踊る」(東京)、ホーンチオブヴェニソン(ロンドン)、ヴォーンマシーネ(ベルリン)、ドミニクフィアット(パリ)、Qボックス(アテネ)、ヒロミヨシイ(東京)など。主なグループ展に、オペルヴィレン財団(リュッセルハイム)、サンパウロ近代美術館(サンパウロ)、MOCA,(ロサンゼルス)、国立近代美術ギャラリー(ニューデリー)、クンストハレウィーン(ウィーン)、新国立ギャラリー(ベルリン)、第2回横浜トリエンナーレ(横浜)、ICA(ロンドン)、マニフェスタ4(フランクフルト)、モントリオールビエンナーレ(モントリオール)など多数。

※全文提供: ヒロミヨシイ

最終更新 2009年 11月 07日
 

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