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西奥起一:見ための手ざわり
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 9月 23日

画像提供:gallery neutron copyright(c) Kiichi NISHIOKU

西奥起一が京都での個展を開催して早4年。と言っても私は実際にその展示を見たわけではない。初めて彼の作品を見たのはポートフォリオだった。その当時まだ入社したての私は店頭に設置しているポートフォリオを見まくっていた。様々な形態の作品ポートフォリオがある中で、コンセプチュアル・アートを大学時代に研究していたということもあってか、なぜか彼の作品がとても気になっていた。西奥の作品は、例えば絵画や彫刻のみが「作品」として存在するというのであれば、彼の場合は作品とは呼べないのかも知れない。香辛料や植物の光合成など、実際に目の前で行われている事象やほのかに漂う香りなど、目に見える形では表現されていない。むしろ目に見えないものを気付かせるということが彼の「作品」なのだ。そんな彼のポートフォリオから香辛料の匂いが漂っているかのように私は彼の作る世界に魅了されていった。

時間や空気、匂いや行為そのものは人間の目では確かめられない。ただそれらは私達の生活環境の中に確実に存在しているのだ。それを私たちに気付かせてくれる作品を制作する西奥にとって、築120年の古民家を改装とは「時間」との対面だったのではないだろうか。現在彼は古民家を改装し、そこでカフェ+養鶏+ギャラリーをやっている。改装、オープンまでには相当の時間と労力が費やされただろう。掃除をするにしても長い時間を生き続けた家なのだから、いつもほうきがけされているようなところでもやはり埃はたまるだろうし、ましてや屋根裏ともなればもしかすると120年前からの埃や塵も溜っていたかも知れない。私たちにとってはただのゴミでしかないそれらの埃は彼にとってはゴミではない。長い年月をかけて蓄積された埃や塵は、「時間」という実際には目に見えないものの、目に見える形の現れとして表出する。それをただのゴミと見るか、それとも時の形と見るか。彼の作品においてはもちろん後者で、鑑賞者がそれに気付くための緻密な仕掛けが用意されている。そう、彼の作品は特別な世界を描いたり作り上げているわけではない。私たちの身の回りにあるささやかでごくあたり前のことを気付かせてくれているのだ。

8月の東京と9月の京都での個展。とても近い日程ではあるが、真夏と初秋では朝昼晩を通して空気が全く違う季節である。夏は蒸し暑い京都でも9月の夜ともなれば涼やかな風が気持ち良い季節であり、夜の鴨川散歩は格別である。西奥の作品と対話をし、研ぎ澄まされた感覚を持って散歩をしてみてはどうだろう。いつもとは違う風景がそこにはあるかもしれない。(gallery neutron 桑原暢子)

全文提供: gallery neutron

最終更新 2009年 9月 15日
 

編集部ノート    執筆:平田剛志


今展における西奥の作品はひそやかな静的ビフォアアフターな変化がある。西奥が築120年以上たつ古民家の一部や所有物を素材とした時、その物質が耐え、所有していた「時間」の一部がさらけ出されるのだ。あるいは、≪ヌカボール≫(2009年/米ぬか、水)にいたっては、作品そのものが「時」を生きるのである。本展を見れば100年など小さく微かな変化だとしか思えなくなるが、その感情もまた小さな波紋のように広がる静的な展覧会である。


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