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和田 真由子「隣人」
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2016年 5月 28日

和田 真由子「隣人」

児玉画廊では5月28日(土)より7月2日(土)まで、和田真由子「隣人」を下記の通り開催する運びとなりました。

和田は、自身の作品制作における主要なテーマ「イメージにボディを与える」ということを、これまで様々な視点から繰り返し示してきました。「イメージ」という語は美術の場ではよく耳にしますが、様々なニュアンスを含むため一元的な解釈をすることが難しい言葉です。和田にとって「イメージ」とは、頭の中に浮かび上がる「図像」のことを指します。「図像」と言う以上、無意味なもの、抽象的なものではなく、その形状が何らかの意味と結びついていることが前提としてあります。例えば「馬」や「犬」と言われて頭に浮かぶ「図像」です。しかしながら、その「図像」の造形はその人それぞれに異なっているに違いない上に、当然のことながら頭の中で思い描いている様を他者がつぶさに垣間見ることはできません。そこで和田は、「ボディを与える」という独特の表現をしていますが、絵画が他者に対して自分が見たもの、思い描いた「イメージ」を具体化する役割を持つという側面から見れば、非常に有意義な行いであると和田は考えたのです。和田の作品は、絵画というものをただキャンバスに絵の具で描いたという方法と結果に求めるのではなく、発想を転換して、「イメージ」のあり方に即して造形を逆算的に導いていくことこそ絵画の本質とは言えまいか、という絵画の可能性を探る試みでもあるのです。

まず、キャンバスに描く、という行為をまるで彫刻のように、キャンバスという台座に「イメージ」を乗せる行為と置き換えて考えることから始めました。例えば木枠に画布をかけただけでもそれは「イメージ」を支える台座として絵画たり得るだろうし、頭の中で形成した直方体をその各面の二次元的パースにそって切り出した板を組み合わせて置いてみたとしたら、それは紙に描いた透視図法による直方体となんら本質は変わらないのではないか。こういった発想に沿っていくならば、「イメージ」を具体化するということの本質において絵画とは本来フォーマットとは断絶したものである、という仮定を得たのです。和田は、絵画的なフォーマット、つまり”on canvas”あるいは”on board"などという形骸的な区別を無意味化し、「イメージ」がその存在を具体化できるように何らかの支持体によって現前しているのである、という絵画的な体験/状況をこそ主張しているのです。その点を踏まえて、和田の作品を前にすることで、いかに作家が絵画を捉え、いかにその革新的な視座を我々に示しているのか、理解を一歩進めることができるでしょう。

特に、特筆すべきは、先述した「イメージ」のあり方に即して、という考え方です。「馬」の「イメージ」であれ「建物」の「イメージ」であれ、和田の頭の中で、ある程度の具体性と質感と、時には重量感、におい、色彩、など形以外にもあらゆる情報が付加されて「イメージ」として浮かんでいるはずです。しかし、それは3D画像のように全方向的に見えているわけではなく、単一視点からの正面像に縛られ、また記憶や印象の強弱などによって、明瞭な部分と曖昧な部分が混在します。では、この限定的な視点かつ混濁した状態にある「イメージ」をどのように正しく造形化し他者へ提示するか、という点で、次に重要となるのが素材とパースペクティブになります。曖昧な「イメージ」を曖昧なままに表現出来る素材とは何か、明瞭な「イメージ」を表すために他者にそう思わせる素材は何か、例えば、透ける素材(ビニールシート、透明メディウム、ワックスペーパーなど)とハードな素材(ベニヤ板、紙粘土、色)の使い分けは、和田の中での「イメージ」の強弱に基づいていると見るべきなのです。前回の個展「ハムレット」において、まるで目に見えぬ絵画を発表し、観客を童話の裸の王様のように戸惑わせた一連の作品群においても同様であり、舞台を観た印象、本を読みながら浮かんでくる情景、それらの「イメージ」の強度がいわば亡霊のように曖昧であったとしたなら、見えにくいものとして提示する、それは必であると言わざるを得ないのです。パースペクティブの点では、「イメージ」に対して一つのパースペクティブを保持することで(キュビスムの逆)、平面から逸脱し空間的な表現に移行してもなお絵画的な性質を保存することができる、それを発展させて「レイヤー」の要素を加えればその逆(平面上において建築/立体物を企図するなど)すら可能である、そういった試行錯誤を経て、様々な形態を生み出していくのです。

今回の個展では、これまで述べてきた「イメージ」について、「隣人」という少し身近な存在として改めて対象化しようとしています。これまでは、和田の言う「イメージ」が極めて主観的なものであるが故に、制作態度としては極力客観的な視点で臨んでいたため、そこに敢えて主観を加味していく試みです。今回の作品に対して「本があったとして、本自体の姿形より、内容が先に頭をよぎる状態」、「風景の図柄があるテキスタイルにおいて、気に入っていたり自分で勝手にストーリーを付加したりした特定のものだけクローズアップされて見える状態」というように作家は示唆を与えています。何かを見て、それを頭で反芻した際に、おそらく多くの人は特に印象強い一部分が強く思い出されたり、その物の形よりも雰囲気や手触りなど、特定の感覚が先に想起されることもあるでしょう。今回の個展で見せるのは、そういった和田の主観的なフィルターを通して認識した対象物へのより親密な「イメージ」の在り方、そして、その提示の方法、という作品構成になっています。

ノーマン・マクラーレンの著名な映像作品「隣人(Neighbors)」では全てが左右対称のまるで鏡に映したような「隣人」同士が、お互いの土地の境界に咲いた小さな花を巡る様々な諍いを繰り広げます。国境紛争や人間関係を揶揄した作品と思われますが、そうしたポリティルなメッセージよりも、二人の「隣人」同士を傍観者的視点から捉えることで、対立しつつも瓜二つな両者の本質は同じもの、主体と客体が相互補完的なものとして描かれ、鑑賞者であり傍観者であるはずの自分の本質までも同一線上にあぶり出されていくような構成には、和田が「イメージ」と作品の間に見据えている相互関係とも非常に近しい感性を感じます。「イメージ」と作品が示す似て非なる「隣人」関係に対して、和田真由子は、行為者かつ傍観者として三角形の一頂点に立ちその双方ともの「隣人」であるのです。人を以って鑑となす、とはよく言いますが、おそらく和田真由子にとっての「イメージ」あるいは作品は、対象物/他者としての「隣人」であると同時に、自分の中だけに存在する認識の在り様、内面的な自我の表出であるに違いないのです。ひいては「イメージにボディを与える」とは、「イメージ」についての一般的回答を示すのではなく、『和田真由子の「イメージ」』という極めて狭く、そしてナラティブなものを「隣人」たる他者に向かって知力の限りつまびらかに示すことを志向しているように思えます。

(2016年5月 児玉画廊 小林 健)



全文提供:児玉画廊


会期:2016年5月28日(土) 〜 2016年7月2日(土)
時間:11:00-19:00 オープニングレセプション:5月28日(土) 18時より  (白金アートコンプレックス合同開催)
休日:日・月・祝休廊
会場:児玉画廊

最終更新 2016年 5月 28日
 

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