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余裕と優しさ
レビュー
執筆: 安河内 宏法   
公開日: 2014年 5月 14日

[fig.1] Gallery PARC 展示風景(撮影:草木貴照)

[fig.2] GALLERY wks. 展示風景

[fig.3] 《オンリーワンカップ》(撮影:草木貴照)

[fig.4] 左《ワンパーターンの絵画06-2》、
右《ワンパーターンの絵画06-3》

[fig.5] 《郵便配達夫K氏の肖像(習作)》

[fig.6] 《ウコンスカルノ》
(撮影:草木貴照)

[fig.7] 《私も貝になりたひ》
(撮影:草木貴照)

[fig.8] 《KUMIKOと貝殻と私》

   美術作家の木内貴志が同時期に開催したふたつの個展は『続 木内貴志とその時代~さようならキウチさん~』(Gallery PARC/京都)、『続続 木内貴志とその時代~帰ってきたキウチさん~』(GALLERY wks./大阪)と題されていて、前者では新作が、後者では過去作が展覧されていた[fig.1、2]。それぞれのメインタイトルにある「~とその時代」というフレーズは、『フェルメールとその時代』や『北斎とその時代』などといった巨匠の回顧展にはおなじみの展覧会名の借用であり、サブタイトルの「さようならキウチさん」と「帰ってきたキウチさん」は、ドラえもんのよく知られたエピソード(てんとう虫コミックス6巻所収の「さようならドラえもん」と7巻所収の「帰ってきたドラえもん」)に因んでいる(註1)。

   出品作品で目についたのは、いま記した展覧会タイトルがそうであるように、何らかの形式、それも美術界においてよく知られ、価値が認められている作品の形式を借りることによって作られた作品であった(註2)。たとえば、Gallery PARCに展示されていたワンカップ大関のラベルをキャンバスに貼り付けた《オンリーワンカップ》[fig.3]は、キャンベル・スープ缶の広告の図像を反復させたウォーホルの作品をすぐに思い出させるし、GALLERY wks.に展示されていた《ワンパターンの絵画06-02》や《ワンパターンの絵画06-03》[fig.4]は、単一の平面的な模様によってオールオーバーな画面を作り出している点で抽象表現主義の絵画のようだった。また、佐伯祐三の《郵便配達夫》を模した自画像《郵便配達夫K氏の肖像(習作)》[fig.5]もあったし、ダミアン・ハーストの《For The Love Of God 》というドクロにダイアモンドを貼り付けた作品にそっくりの、しかし貼り付けているものが「ウコンの力」の缶だったりする《ウコンスカルノ》[fig.6]もあった。さらには、これまで列挙してきたものとは毛色が違うが、顔出しパネルに武田久美子の良く知られた写真(註3)を組み合わせた作品も出品されていた[fig.7、8]。

   このような借用によって成り立つ木内の作品は、どういった性質を持っているのだろうか。ここで、これまで木内の作品に対して向けられた言葉を参照するのであれば、彼の作品はボケやツッコミといった言葉と結びつけられて語られることが多かったように思われる(註4)。たとえば先に記した《オンリーワンカップ》は、ウォーホルの作品の「あの」キャンベル・スープ缶と、僕たちにとってはお馴染みの「この」ワンカップ大関とを結びつけるボケを見せているかのように見える。あるいは、キャンベル・スープがウォーホルにとって「この」と名指される卑近なものであったことを思い出すのであれば、《オンリーワンカップ》は僕たちが「あの」と「この」とを峻別し、両者の間に価値の序列を見て取ってしまうことに対するツッコミとしても機能するだろう。こんな風に木内の作品は、ユーモラスな仕方でルールからの逸脱行為を働き、その結果、鑑賞者の笑いを誘ったり僕たちの価値観に疑義を提示したりする。だから、ボケやツッコミという言葉と結びつけられることが多かったのである。

   むろん、こうした解釈が間違っているとは思わない。しかし木内の作品の魅力が、単に彼の作品が逸脱行為を働いている点にあるのではないことは、強調しておきたい。ポップ・アート風の、抽象表現主義風の、著名な現代美術作家風の、あるいはアイドルの写真を模した木内の作品はたしかに、ポップ・アートの作品、抽象表現主義の作品、現代美術作家の作品、そしてアイドルの写真から逸脱している。しかし、なぜそこに逸脱を感じるのか。それは木内の作品が、それらの形式に全面的に依拠することで成立しているからである。簡単に言えば作品が「そっくり」に作られているからこそ、そこに「ズレている」部分が表れるのである。このように木内の作品は、既存の形式に対して依存と逸脱という相対する関係を取っている。こうした両義性こそが、木内のボケやツッコミを単なる逸脱行為から分かつ点に他ならないし、何よりも木内の作品の魅力なのではないだろうか。

   人は、自らが憧れを抱く存在の真似をすることはできる。しかし真似は真似に過ぎない。そもそも憧れとは自分と対象との間の距離を前提にするものであるから、憧れている存在と、憧れを伴ったままに同一化することは原理的にできない。だから憧れの存在と自らとを無理にでも重ねようとすれば、違和感を覚えてしまうことになる。ではそうした違和感を覚えるとき、人はその違和感とどのように向かい合うことができるのか。選択肢のひとつとして、違和感を無視し、憧れの存在と自らが完全に同一化できたと自分を偽る方法がある。しかし別の選択肢もある。憧れの存在と自らは同一化できないということを素直に認めるというのが、それである。木内の作品は、その道を選んでいるように見える。木内は、多くの人が価値を認める美術作品を選び、その形式の中に自身の日常を取り巻く種々のモティーフを時に露悪的とも思えるほどにあるがままに提示することで、両者の間の隔たりを示す。あるいは顔出しパネルによってアイドルと自分とを重ね合わせようとしながらも、それが挫折するしかないことを示す。このようにして依存と逸脱という両義性を備える木内の作品は、鑑賞者に対して、憧れの存在にいかに接近しようとも完全に同一化することはできないという事実を実直に示すように思われるのである。

   憧れの存在と同一化できないという事実は、悲しいことなのかもしれない。しかし木内の作品が教えてくれるのは、その悲しさはやり方によっては笑いに変えることができるということである。僕たちは、アンディ・ウォーホルやフランク・ステラや佐伯祐三やダミアン・ハーストや武田久美子になりたいと願ったとしても、なれはしない。なれないからと言って、自らが抱く憧れを否定したり悲嘆にくれたりする必要はない。木内の作品がそうしているように、なりたくてもなれないという事実を認め、笑えばいいのだ。あるお笑い芸人は、ボケとツッコミという言葉がまだ一般的でなく、それらが非常識な行為とそれに対する注意だと解釈されていた頃、ボケとツッコミを次のように言い換え説明した。すなわち、余裕と優しさである、と。木内の作品が見せるボケやツッコミは、憧れの対象と僕たちの間にある隔たりを笑う余裕を、つまりはそうした隔たりを抱えながら生きていく僕たちを肯定する優しさを湛えているように思えるのだが、どうだろうか。



脚注


(註1)4月5日にGALLERY wks.にて開催されたアーティストトークにおける木内の発言より。なお、Gallery PARC、GALLERY wks.ともに、作品が展示されている場所とは別の場所ではあるが、来場者の目に見える場所にドラえもんのコミックが置かれていた。

(註2)本レビューでは既存の形式を借用して作られている作品を取り上げ、それらの性質について論じているが、木内の作品のすべてが既存の形式を借用して作られているわけではない。事実、ふたつの個展には既存の形式を借用して作られたのではない作品も出品されていた。しかしこれらの作品の中にも、本文中で後述している両義性という言葉に馴染みやすいと思える作品はあった。たとえば、モザイクをモティーフにした《R無指定》や、おそらくは自慰行為の際に使用されたティッシュペーパーを花に見立て描いたドローイング《メンズフラワー》である。《R無指定》について言えば、モザイクは、ある対象にかけられることで、その対象に淫靡さを付与すると同時に、その対象を隠しもする。すなわちモザイクは相反する機能を同時に果たすという意味において両義性を持つと思える。一方の《メンズフラワー》は、いささか図式的な解釈になるが、ティシュペーパーにおいて美醜双方が結びつけられているという点において両義性を持つと思われるのだ。

(註3)武田久美子は80年代に活躍したアイドル/女優である。木内が引用している「貝殻ビキニ」の写真は、武田が1989年に発表した写真集「My Dear Stephanie」に掲載されている。

(註4)たとえば、Gallery PARCの個展の紹介文http://www.galleryparc.com/exhibition/exhibition_2014/201403-21-kiuchi.htmlには、木内の作品に対して「個人の中で練りに練られたシニカルなツッコミであったりしますが、同時にその多くは駄洒落、庶民、ベタ、自虐といった香りを帯びたボケとしても機能し」などと紹介されている。また沢田眉香子が京都新聞(3月22日朝刊)に掲載した同個展のレビューにおいても、「卑近な環境、個人的なこだわりから取材した題材にツッコミを入れることが多い」と書かれている。さらに、小吹隆文がartscapeに執筆した同個展レビューhttp://artscape.jp/report/review/10098555_1735.htmlにおいても「木内は美術史や自分自身のプライベートを題材に、ベタな笑いと自虐精神に満ちた、批評的かつコンセプチュアルな作品で知られている」と書かれている。その他、批評文ではないが、2007年10月に大阪の海岸通ギャラリーCASOにて開催された展覧会「美術のボケ」http://www.caso-gallery.jp/exhibition/2007/071002bijutsu-no-boke.htmlにも、木内は出品している。

 

参照展覧会



木内貴志個展「続 木内貴志とその時代 ~さようならキウチさん~」
会期:2014年3月21日-4月6日
会場:Gallery PARC

木内貴志個展「続続 木内貴志とその時代 〜帰ってきたキウチさん〜」
会期:2014年3月24日-4月12日
会場:GALLERY wks.

 

最終更新 2019年 10月 23日
 

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