「町田久美と縁起物」 町田久美:日本画の線描 |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2008年 9月 02日 |
1. 出身地高崎での個展開催ドイツ・ハノーファにあるケストナーゲゼルシャフトでの「町田久美」展(2008年2月22日-5月12日)が巡回し、「町田久美-日本画の線描」展(2008年6月24日-8月24日)として高崎市タワー美術館で開催された。町田にとって国内初になる美術館での個展が海外からの巡回展というのは情けないが、まずは群馬県高崎市という地方都市で、作家の出身地で開催されたことを祝福しよう。 ただ、気になることがある。出品作家の多くが注目された東京都現代美術館でのグループ展、「MOT アニュアル No Border-「日本画」から「日本画」へ」(2006年1月21日-3月26日)が町田も広く知られるきっかけだったからだろう。高崎市タワー美術館での展覧会は、町田の作品を第2部とし旧作37点を並べる一方、第1部に「日本画の線描」と題して日本画18点を並べていた※1。チラシにはその意図するところとして、「現在の日本画とそこに息づく伝統的な技法について展観します」と書かれている。町田が一本の線を何度も描き重ねていることは作家だけではなく研究者等によっても語られているとおりだが、そのことへの過剰ともいえる反応が、ここには表れていないだろうか。巡回展が開かれた経緯には、町田が同市出身というだけではなく、同館が日本画を専門とする山種美術館の創設者、山崎種二の次男・山崎誠三のコレクションを収蔵しているということも大きく作用したはずだ。 なるほど、町田は多摩美術大学絵画科日本画専攻を卒業しているし、その線はそうはいっても特徴的である。だが、そうした技法はむしろ秘匿されるべき、楽屋裏の話ではなかったか。すなわち、わたしたち鑑賞者にとっては、その作品がどのように制作されているかなど、関係ないのである。そう描いているといわれなければ想像しえない技法が、枕詞のように作家の言説に組み込まれ一人歩きしているこの現状は、問題があろう。もちろん、その技法が作品を成立させる上で不可欠であることに異論はない。そうであれば徹底的な追及をすればいいのだが、今回の担当学芸員がそこまで考えていないことは、次の文章に明らかであろう。「町田が他の作家と際立って異なるのは、作品に過去や現在の何かを取り込んで昇華させるのではなく、全く新しいものを生み出している、という点ではないだろうか」※2。全く新しいものを生み出しているのなら、日本画と比較する必要もない。 あるいは北澤憲昭は町田の作品を、グローバルでありローカルという意味の新造語、「グローカル」という言葉を用いて語っている※3。しかしその言葉がどのような作品を表すのか、具体的な言及はほとんどなく、石子順造の言葉を借りれば、「便宜の呼称を実体視するのは、いつも不毛なことである」※4というところか。未知の作品に対し、いつも新しい言葉が必要だとは限らない。 わたしは今回、高崎市というともすれば忌避されるかもしれないローカルな視点から町田の作品を語る。「日本画」でも「グローカル」でもない角度から作家の原風景を掘り起こし、そこから作品の変遷を考察することが目的である。 2. 高崎市のアイコン町田の出身地である群馬県高崎市には、6000トン近いコンクリートによって作られた、高さ40メートルを越す巨大な観音像が屹立している。群馬県民であればおそらく誰もが知るこの像を、高崎白衣大観音という。1936年に実業家の井上保三郎によって建立されたこの観音像は、1995年に大規模な修理を経ながらも、今でも観音山の丘陵から同市を見下ろしている。 万博公園にそびえ立つ岡本太郎《太陽の塔》(1970年)ほどのインパクトはないし、高崎市といっても広いから、「町田は高崎白衣大観音を見て育った」とまでいうつもりはない。しかし、町田が大学進学まで過ごした町に、流れるような衣文と、いくぶんふっくらとした顔立ちをそなえた、白色の巨大な観音像があるということを、わたしたちは記憶しておいてよい。 もう一つ高崎市の名物として忘れてはならないのが、だるまである[fig. 1, 2]。学業成就、商売繁盛、家内安全、等々。祈願の対象、あるいは縁起物として馴染み深いだるまだが、その生産量日本一を誇るのが高崎市なのだ。古くは達磨大師が座禅を組んでいる様子をそのまま表現していたが、次第に繭のように縦型になり、現在ほとんど球体であることはわたしたちも知るとおりである。 だるま発祥の地である少林山達磨寺では、毎年一月上旬に「七草大祭だるま市」という即売会が開かれる。忘れてはならないのが、人々が新しいだるまの購入と同時に、一年間の役目を果たした古いだるまを寺に返納しているということだ。ここで納められた大量のだるまは、その後「どんどん焼き」と呼ばれる供養によって焚き上げられる。高崎市ではないものの町田と同じく群馬県出身のわたしは、別の場所でこれを経験している。だるまは張子で作られているから、このとき素材の竹や木がバチバチと激しい音を立てるのだが、まっかなだるまが音を立てて燃え上がり、白黒入り混じった煙が空に昇るその様子は、宗教的な荘厳さなどではない、有無をいわせぬ迫力があった。 このように高崎市は、高崎白衣大観音やだるまにまつわる一連の行事など、信仰の対象が日常に溶けこんだ町である。町田もまた、だるまや招き猫といった縁起物が子供のころから見慣れた存在であったことをインタビューで語っている※5。しかしそれらを除けば、多くの地方都市がそうであるように無個性であることも事実である。そして町田のように絵を学びたいという人間にとって、十分な環境は整っていない。だから、県外に出る。町田が生まれ育ったのは、そういう町である。 それゆえ町田の、「自分は出身地に愛着がほとんどない」※6という発言に、わたしは共感する。しかしそんな町田の作品に、出身が高崎市ならではのモチーフが頻出している、ということに着目しないわけにはいかない。たとえ自身が出身地にアイデンティティを感じずとも、生まれ育った土地の風土、その空気を町田の作品はまとっているのである。 3. 縁起物をきっかけにインタビューで注目したいのは、町田が大学卒業後、色づけされていない張子に上絵を描き、縁起物のイベントを通して販売をしていたことだ。「実家周辺で、胡粉で真っ白に塗られた張子下地を見掛けたことがきっかけ」※7で職人に頼んで張子を分けてもらったという町田は、この頃から現在のような“線の作品”を描き始めたという。ここから、大学のころ描いていたという厚塗りの絵が、いわば劇的に変わるきっかけとして縁起物があった、と考えることは不自然ではない。 高崎市タワー美術館で第二部の冒頭に展示していた、キューピーの体に福助・招き猫・キツネが描きこまれた《小僧》(1995年)[fig. 3] や、ソテツの実に種子ではなく招き猫がぎっしり詰まった《ソテツ》(1996年)[fig. 4] がこのころの作品である。あるいは今回の出品作品ではないが、後年差し色がほどこされた《郵便配達夫》(1999-2006年)[fig. 5] もまた、伊藤若冲から借用した鶏にまたがっているのが福助であるという点で、同じ系譜に連なろう。研ぎ澄まされた線が特徴的な近作に見慣れたわたしたちは、まずその描きこみの多さに驚く。そしてクローズ・アップが用いられず、対象がきれいにフレームに収まり、その全体が一目でわかることも特徴の一つである。それはまるで彫刻などの立体を撮影した写真を思わせる。叶わないことだと知りつつもその全体を一枚におさめるために、わたしたちはほとんど正面から、あるいは少し斜めから対象を捉えるだろう。それと同じ構造がこれらには見受けられる。町田の線を用いた初期作品は、縁起物をきわめて平面的に、そのまま絵画化したような素朴さがある。 一方、たとえば近作の《優しいひとたち》(2007年)[fig. 6] の中心に描かれているのは顔である。頭にできた大きな瘤を支えてもらっているこの人物は、全体としてどのような姿をしているのかわからない。《きざし》(2006年)[fig. 7] がその典型的な例だが、近作は一部を除いて対象の全体がほとんどわからないように作画されているのである。クローズ・アップというより、ズーム・インというほうが的を射ているか。 わたしはこれらの変遷を、まっ白な張子に絵付けをするという行為から生まれた線が、一回りして、絵付けのされていないまっ白な張子に回帰しつつある、と考えたい。つまり、その当初こそまるで張子に描き込むように、あるいは縁起物をそのまま絵画におこすように多くの線を必要としたが(縁起物は派手な外見のものが多い)、きっかけがそうであったように、町田は次第に上絵が施されていない張子や、紙や墨といった素材そのものに惹かれていったのではないか。町田は 2004年ごろから、《装置》(2004年)[fig. 8]、《ごっこ》(2004年)[fig. 9] 、《関係》(2006年)[fig. 10] 、《来客》(2006)[fig. 11] と、「白」を効果的に用いた作品を制作している。その背景にも、張子の記憶があるのかもしれない。 「縁起物」と記してきたが、町田が描くキューピーも、それらと姿かたちが類似している。イラストレーターのローズ・オニールがアメリカの婦人雑誌『レディーズ・ホームジャーナル』にキューピーのイラストを発表したのは、1909年12月のこと。群像として描かれたキューピーは、たちまち人気をさらった。そして1913年になるとドイツで作られた人形が発売されるのだが、この生産が作者の依頼を受けて日本でも開始される。当時は輸出向けだったが、大正に入ると日本独自のキューピーが登場した。裸ではなく、夫婦や勧進帳の姿をしたもの、七福神と合体したものや、招き猫のポーズをまねたものまである[註8]。刺青をほどこすようにキューピーに福助らを描きこむ町田の発想と、近いものがここにあることがわかるだろう。そして、これらはキューピーが、広義の縁起物、信仰の対象として扱われていたことを示している。まるで《小僧》さながらに、キューピーがときに縁起物と同化すらしながら、同じ機能を果たしてきたということは興味深い。 以上、縁起物を手がかりに町田の作品について考察した。 作品の話に戻ろう。縁起物に特徴的な幼児を思わせもする体型は、そのままでは脆弱な印象を与えるが、線が重ねられ、太くなることで視覚的強度をもった。そして一見して明らかな線の減少は(実際は多くの線が集束しているにしても)、紙や墨といった素材に眼を向けることになった。わたしたちは作品に近づくとき、雲肌麻紙の美しさに気づかないわけにはいかない。線がどのように重ねられているかではなく、その紙にのせられた墨や岩絵具の美しさに反応しないわけにはいかない。さらにこれらと並行するように、作品には薄墨による陰影がほどこされ、立体的な質感をおびていく。「陰影をつける」という日本画の世界では基本的に行われない行為も、立体への憧憬がその思考の奥に隠れていると仮定すれば、納得がいく。 つまり町田の作品は、縁起物をきっかけにして、それが持つ様々な要素が昇華されることで生成されているのである。 4. さいごに町田がどのような場所で生まれ育ったか。そして、そこには何があったか。美術におけるジャンルやグローバル化という問題と比べるとあまりに瑣末かもしれないが、わたしはそれこそが、作家と作品の根本を作っていると考えている。縁起物にすべてを収斂することはできないが、一つの側面を描き出すことはできたのではないだろうか。 最後に、町田の言葉を紹介しよう。 「何かを目指したりしているわけではありませんが、福助のような共通認識のない図像、自分のイメージにある、例えばへんてこな頭だったり手の形だったりするもの、個人的な思い入れや想像、概念から出てきたものを線で形にしたとき、そこにどこまで説得力を持たせられるのか、それ以前にこれらは作品として成り立っているのだろうか?とかなり不安でした。それで、少しずつ少しずつ、そういったことを試していきました。それに共感を得られるかとか、何かを感じてもらえるとかは、まったく未知数でした。」※9 変化の只中にいる町田の、その先をこれからも見ていきたい。 脚注
参照展覧会 展覧会名「町田久美と縁起物」町田久美:日本画の線描 |
最終更新 2015年 9月 10日 |