浅野綾花:ここに住んでいる |
レビュー |
執筆: 黒木 杏紀 |
公開日: 2014年 12月 09日 |
日々の生活の中で、私たちはたくさんのことを感じながら生きている。そして、その大部分は忘れさられていき、ときに鮮烈な感情は記憶として残される。確かなのは、消えゆくものも深く心に刻みこまれたものも含めて、その積み重ねで今の自分がいるということだ。 今回の展示会場となる「Gallery&space SIO」は、戦後間もなく作られた貿易商のための自宅兼仕事場であった。全国から良質な古材を集め焼け野原の中でいち早く造られた建築物は丁寧に改装され、現在では中庭のある古民家風の特徴的な空間を持つギャラリーとなっている[fig.1][fig.2]。そこに展示されているのは色とりどりの銅版画。描かれているのは作家の身近な風景、自身の記憶や経験、そして言葉。空間の持つ雰囲気もあいまって、作家が住んでいた場所に対するノスタルジックな思いを表現しているのかと一見思えたが、少し違った。 おおまかな構成は、浅野が綴った小さな本の作品《ことば集》[fig.3]がいくつかと、旧作のモノクロの銅版画1点、近作・新作の銅版画が多数となっている。その中でも、かつての応接室に展示されている旧作の大きな銅版画《狂想する春》(2009)[fig.4]について少し触れたい。 これは今から5年前に制作されたものである。そこに描かれるのは、遠景の町並みと背後の山間からこちらを覗きこむ巨大な少女。子どもとも大人ともいえない年頃の少女は曖昧な表情をしている。目線だけがもの言いたげに、こちらをじっと見つめる。そして、空となる背景には作家自身のまっすぐな情感にあふれる言葉がびっしりと書かれていた[fig.5]。「自分が甘えすぎているから/私は/どんどん/私を/見失っていく/嫌いになっていく/あたしはもうアウトだ/自分が信じられなくなる夢/もし昔のあやだったら/「あやだけが好きだよ」/って/言って欲しかったと思う/最後まで大切にできなかった/君の声が今も胸に響くよ/本当にないと困ること」(註1)。頭の中をいつまでもグルグルと回り続ける内なる会話。当時、浅野は24歳。恋愛体験についての言葉であろうか。少なくとも人間関係を通じて揺れ動く胸のうちを表現したものである。心の拠りどころを失って初めて気づくこと、悔やみきれない思い、やりきれなさ、傷心。赤裸々な言葉は誰しもが一度は噛みしめたことがあるであろう思い。胸に響いてくる。 しかし、この作品を発表したとき、作家の話によると、プライベートをよく知る人たちから「あまりにもストレートすぎる」など、賛否両論の意見があったそうだ。それをきっかけに、作品を他人に見てもらうことの意味や自分を表現することについて、一歩踏み込んで考えるようになった。そして、その後の作品の展開をより明確に示す上で、浅野は旧作である《狂想する春》をあえて展示したのだという(註2)。また、それにより時間の経過も同時に提示されたことになる。 新旧の作品ともに言葉が織り込まれていること、モチーフが個人的な経験であること、表現の内容は心に思い浮かんでは消えていく一瞬のものであることに変わりはないが、新しい作品には浅野が過ごしてきた時間に加え、作品制作の経験を積むことにより生まれた変化が表れてきている。 一つ目は、自分の内面を見せるに過ぎなかった言葉から、他者に投げかける言葉へと様変わりが見られる点だ。言葉に包容力が現れてきて、大人の女性へと移りゆくさまが垣間見られる。作品《ヴィーナスアットホーム》(2014)[fig.6]では「私は天才、あなたは最高にかわいい/彼は詩人くん/幸せのトライアングルへ、君も/塩コショウかかっているからね」。作品《手が届かない人を好きに想う幸せについて》(2014)では「ほんと、も表さなくては伝わらないんだな」などである。 二つ目は、抽象度が高かった以前のものから、日常生活の身近な景色(註3)や自身の経験・記憶などのさまざまな場面が写実的にコラージュのように描きこまれ、一人の世界から周囲と関わりあう風景へと変化していることだ。 《谷町九丁目に来れば》(2014)[fig.7]では、複数の人や動物の姿、ビルの谷間を飛ぶ飛行機。作品《15時の君とおやつ》(2014)[fig.8]では、料理の場面などが見られる。 アートの分野において、さまざまな概念やテーマで作品が制作される中、いわば「自分そのもの」をテーマにおいている作品は数少ないように思う。内面の変化や成長というものは、自分でもなかなか実感できないものであり、形にもしづらい。ましてや、内面で起こったことをそのまま表現するのは、照れや恥ずかしさもある。しかし、そこを乗り越え、作家が自分の立ち位置を明確に印したとき、それを観る者の立ち位置も、その印を基点に明確にされる。作品に描かれた言葉を、今まさに経験している者は、それを自分の言葉のように感じるだろう。またある者はかつての思い出を懐かしく振り返るのかもしれない。そして、その基点の移動(作家の成長・時間の経過)によって、観る側の変化の度合いも推しはかられるのではないだろうか。それは、決して比較なのではない。人は人と関わり合いながら生きていくものであり、同様に作品(を通じて作家)と出会っていく。そこで起こる対峙は自分自身との向き合いになるといえよう。 作家の胸の内から解放された言葉と風景は周囲に反響していく。いつしか観る者は作品に自分を重ね、あるいは遠い記憶の中に自ら埋没していくのだ。そこで見えてくるものは人それぞれなのである。事実を何度も反芻し蓄積された人の記憶、切り取られた風景の版を重ねて作られる版画、古民家が持つ人が生活してきた時間、これらの幾層もの断片が、やさしく押し寄せてくる。心地よい懐かしさが、あとに残るのは、そのせいかもしれない。大切なものは何も特別なことではない、日々の一瞬一瞬、忘れてしまうくらい平凡だと思える中にこそあるものだ。何気ない日常生活が愛おしく思えてくる、そんな展覧会だった。 脚注
浅野綾花展「ここに住んでいる」 会期:2014年8月25日(月)~2014年9月7日(日) 会場:Gallery&space SIO 参考サイト Gallery&space SIO http://gallery-sio.com/ |
最終更新 2019年 10月 24日 |