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稲富淳輔 展:アンジェリコの鍵盤
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 3月 04日

copyright(c) Junsuke INATOMI / Courtesy of neutron tokyo

いくぶん謎めいたタイトルである。作家自身が明かしている様に、「アンジェリコ」とはイタリア、ルネサンス期の画家であり、「フラ・アンジェリコ」(天使のような修道士)という通称を持つ(本名はグイード・ディ・ピエトロというらしい)ドミニコ会の修道士であった人物を指す。いわゆる宗教画を主とした様で、代表的な作品として「受胎告知」や「聖母戴冠」などを描いている。

 稲富淳輔がサンマルコ寺院(おそらくサンマルコ美術館)で見て魂を震わせた絵がどれなのかは、あえて重要ではないだろう。必要以上に「アンジェリコ」という画家にとらわれすぎても、ここに登場する現代の陶芸作家の輪郭にも辿り着けない。私達にとって「アンジェリコ」は「ミケランジェロ」でも「ダヴィンチ」でも大差はないのだが、作家にとっては「アンジェリコ」という名前が作家自身の感覚的体験を再現可能な記号として用いているのであって、まさに暗号のようなものである。続く「鍵盤」も英語に直せば「key」または「keyboard」となるのだが、一つの解釈として考えれば、アンジェリコの弾いた鍵盤の一つ(key)と、稲富の内に秘めたるそれとが偶然にも共鳴したとき、驚くほど澄んだ音色(すなわち感動であり共感といえるもの)が存在し得たという事実を暗喩しているのだろうか。

 しかし主役はアンジェリコではない。稲富淳輔という、まだほとんど発表歴も持たない作家が制作の端緒としているのは、心の響き合い、いわば共鳴感覚である。それは「作品」という物質を介在して不定期に、偶然のように生じる感覚であるのだが、稲富はその偶然性の中の必然性、つまり「理由」と思われるものを探そうとしているように見える。つまり共鳴を起こす、ある一つの鍵(key)のことである。

 彼が用いるのは絵筆ではなく、土と窯である。すなわち轆轤(ろくろ)を回して土を成形し、窯に放り込んで焼くという、陶芸の技法をツールとしている。それはアンジェリコの絵画とは本質的には異なる成り立ちであり、「平面」と「立体」という大きな次元の違いを隔ててはいるものの、彼はその差異を問題とするよりも、作品を通じて感覚的・抽象的に沸き上がるイメージ、つまり実存する目の前の作品からさらに想起される想像(ヴィジョン)を現出させようとしているのではないか。

 だとすると、私達が稲富の並べた素朴で変哲の無い(ように見える)壺のような、細長い形状の器を眺めるとき、器という機能、あるいは大小の差や質感の違いに意味を探している限りは、おそらく作家の意図するイメージには辿り着けないことになる。では私はどのように見るかと言えば、整列した壺のような物たちを陶器としてではなく、抽象化された個性ある存在として見ることを試す。即ち擬人化視である。背の低い、ずんぐりむっくりした奴もいれば、奥にはひょろっと上背があるが頼りない者。どっしりと重量感があったり、スマートで格好いいものもある。人間の体型だけでなく、雰囲気や佇まいといった本来不可視とされるものも、何やらこの器たちから感じられるようだ。擬人化と言ったが、人間の体内の70%以上は水分であるのは有名な話である。つまり人間こそ、器そのものである。稲富が並べる器に水が張られていないからといって、私達と共通しないと言い切れるだろうか?

 実際に見てもらえば分かる事だが、それらの器達の表面の質感が独特である。まるで長年に渡ってしっくいを塗り込められた古い壁のように、地肌という存在を隠すように、白く塗られては焼かれる、を繰り返されたものたちは、作家の手の痕跡を内包しつつ、同時に漂白されたように無機質でもあり、ディテールを見れば個別に細かな差異が見て取れる。それらは強すぎず、かといって見過ごされることもなく、個性として存在している。群像の中の個体にこそ、発見が隠されている。

 私達が彼らに出会うことを、彼らもまた期待しているかの様であろう。少しシャイな表情で佇む彼らの中には、私達の「ツボ」いや失礼、「key」を叩くものもいるかも知れない。

※全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 4月 15日
 

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