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益村千鶴:Faint light
展覧会
執筆: 記事中参照   
公開日: 2009年 9月 09日

画像提供:neutron tokyo copyright(c) Chizuru MASUMURA

スローライフと言われて久しい。しかしそれは現代において金銭や仕事や所有物が一通り満たされた前提での贅沢な生き方としての提案か、あるいは全く逆にそれらが満ち足りていない状況での苦肉のポリシーとして掲げられる事が多く、今の世の中に必ずしも定着しているとは言いがたい。不況やインフルエンザが影を落とす昨今では精神的な余裕すら奪われがちであり、現代日本人にとってゆっくりと落ち着いて何かを楽しむという事は、それ自体難しい状況であると言える。それに輪をかけて様々なメディアにおける情報の喧噪が聞こえ、私達の目も耳も、普通に生きているだけで大量の信号を受け止めては流し、感受性を養うどころかむしろ鈍感になることを余儀なくされている面も否定できない。

ある意味では益村千鶴の制作スタンスや作品は、今の時代には不向きであるのかも知れない。

昨年から今年にかけては肩の怪我等もあり、制作は順調に進んだとは言いがたい。それは作家にとっても不本意であることは間違い無いのだが、しかしそもそも彼女の制作に費やす時間は短くなく、次から次へと描けるようなタイプではない。作品は全て油画であるが、一見してその質感は人間の素肌のように滑らかで肌理細かな質感を伴い、その仕上げの丁寧さは作品に費やしたであろう時間と、そこに描かれた事象に対する作家の思いの深さを見る者に無言で訴えかける。作品そのものの成り立ちがスローであり、鑑賞するこちらもまた気持ちを落ち着けて眺めることをしなければ、見過ごしてしまうかもしれない繊細な表現でもある。作品との出会いは必然であれ偶然であれ、結果として幸運にも益村の作品の前に立つ機会が生じた時、その人はよほど急いだ用事でもない限りは(あるいはあったとしても)時計を見る事も携帯を気にする事もしばし止めて、画面の中の事象に魅入られることになるろう。つまらないイデオロギーや時代の流行のスローガンとは無縁のレベルで、彼女の作品には本質的に人間の足を止め、ゆっくりと思考を促す力が秘められている。

およそ一貫して描くモチーフは人体の一部や植物であり、空想上の世界でありながら現実的な質感を伴って、緊張感すら漂わせながら画面の中に存在する。人体の描写はおよそ全て自身の手や顔を模して描かれており、女性にしては逞しい鼻梁や同じく大きめの手は、まさに作家本人のものである。だがそれは自画像としての意味を超えて、私達自身の手や顔、存在自身を表しているようにも見える。特に印象的なのは手であり、その描き方は丹念かつ写実的であるのだが、上記の通り作家自身の手が女性にしてはしっかりとしているので、男女の性差や年齢の多少を意識せずに、繊細さと力強さの同居する益村作品の象徴的なアイコンとして何度も登場するに至る。

花や木といった植物もまた、益村の手のように象徴的に描かれ、花の種類を問題とするのではなく情念や観念を刷り込むモチーフとして使われている。時に人体と植物の両方が登場する作品では、それぞれの傷みが交錯する劇的な出来事が、しかし静かな時間の流れを伴って描かれている。その光景はもはや現実のものでは無いにも関わらず、現実では顧みられることのない大切な「痛覚」を見事に表している様で、忘れ得ぬものである。

作品は作品の中における効果的なライティングによって演出され、普遍の時間を保持する。つまり描かれている状景には、それを表すに最適な光が必然的な意図を持って照射され、モチーフの臨場感と緊迫感を醸し出す一方、時に一筋の希望の光のように、あるいは冬の優しい陽光のように、作品そのものの印象を最終決定する重要な役割を担っている。そしてまさに、今回の新作及び個展のタイトルは「Faint Light」(ほのかな明かり / かすかな光)である。今年に入って描かれた前作「Given」で見せたリアリズムの追求と抑えた色調はさらに進み、静かに、しかし確かに組み合わされた両手は生死のいずれの場面も感じさせながら、その印象は定まらない。それはあたかも、私達自身の存在を照らす光の存在によって、私達の存在そのものが変わっていくかのように。物事は光によって表され、消されもするが、ほの暗く微かに見える領域にもまた、見えるものもある。




(gallery neutron 代表  石橋圭吾)

全文提供: neutron tokyo

最終更新 2009年 10月 28日
 

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