塩賀史子:残像の楽園 |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2009年 2月 20日 |
写真を基に絵を描き起こす手法を取る作家にとって、「写真みたい」と言われることは技術的に賞賛されているとはしても、必ずしも写実的に描く事だけを目的としていない場合、鑑賞者の反応にいくらかの物足りなさを覚えるものだろう。塩賀史子も少なからずそのジレンマの直中に居たのではあるが、ようやくそこから先へと進むべき道筋が見えてきたようだ。 滋賀県は野洲市に住む塩賀は、普段の制作の着想を得るロケーションを、日常的に目にする近隣の森に求めている。つまりは当たり前のように存在する近くの光景の中から、創作のインスピレーションを受けているということになる。画家はつい、普段見慣れた光景よりも刺激を求めて外界に目を向けがちだが、本来求めているものは案外近くに在るという、哲学的な本質を引き出さずとも、彼女のように自然とそこに目を向け、足を向ける作家も居るということである。いや、もしかしたら塩賀とて最初は遠くの世界に羨望を抱いて身近な光景にあえて目を向けることが無かったかも知れないが、それは今となっては重要な事ではあるまい。彼女の描きたいものは、すぐそこに、当たり前の様に存在しているのだから。では塩賀が本当に絵を描くことによって表現したいこととは何なのか。無論写実的に描くことによって技法に対する感嘆の声を聞きたい訳ではない。ずっと追い求めていくであろう景色とは即ち、現実の中に潜む「あちら側」の光景であり、それは森に限らずとも、私達の身の回りに溢れる数多の死であり、生でもある。森や植物はその象徴的なモチーフとして選ばれ、その細部まで活写することによって作家は生命の瞬間の美しさと、同居する儚さを描こうとする。柔らかい陽光の下で光合成を果たしている生命もあれば、やがて朽ちて死を迎えるものもそこに在る。どちらか一方ではなく、常に両義的に生と死が存在し、それぞれの匂いが充満し、耳に入る木々のざわめきや小動物の鳴き声や鳥のさえずりは、歓喜と慟哭の入り交じった壮大なオペラの様でもある。しかし我々はその光景を気にも留めず、すたすたと歩き去るまでに感覚を鈍らせてもいる生き物なのだ。そうでなければ自然に囲まれた瞬間、人間は畏怖によって立ちすくみ、身動きが取れなくなってしまうだろう。しかし画家は立ち止まる。それが微細な生物の生死だったとしても、その光景に潜むめくるめく命の循環に最大限に注意をはらい、両眼にしかと焼き付け、記憶の中から沸き起こる怖れと官能をキャンバスに再生しようと試みる。そして誕生する新たな光景は、もはや本来の意味での現実ではない。明らかにそれはフィクションであり、写実=ドキュメンタリーという図式には当てはまることはない。そこには作家の確固たる意思と増幅された印象が描かれており、私達はそれらをあたかも現実の光景のごとく見過ごすことは出来ないのだ。従来の制作方法とは違い、新作ではまず白黒のみの色で描画するところから始め、そこに少しづつ色を載せていくというスタイルを取っている。それによって風景はさらに深みを増し、現実味よりも幻想的な印象が大きくなっている。しかし紛れも無くこれは現実の光景であり、そこに潜む「あちら側」の光景でもあるのだ。一歩踏み入れればそこには現実では感受しきれなかった現象と感覚が渦巻いている。それを見る私達はあくまで「こちら側」に居るのだが、その両義性もまた、絵画と現実の本質的な光と影を表しているようにも思える。現実にはスポットライトを浴びることなく、人知れず朽ちていく生命も、絵画の中では永遠の命を手に入れることが可能だから。いや、もしかしたら絵画自身も一つの産み落とされた生命として、いずれ死を迎えることもあるのかも知れないが。 ※全文提供: neutron tokyo |
最終更新 2009年 4月 15日 |