酒井龍一:ゆめか、うつつか、まぼろしか |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2009年 12月 29日 |
ニュートロンの東京ギャラリーにおいて紹介する作家のほぼ全ては、本店である京都ギャラリーで少なからず発表を機会を積んだ者の中から、企画者である私が確信を持って投入できると判断した者を優先的に出しているのであるが、今回ばかりは例外と言って差し支えないだろう。なにしろ、私が酒井龍一の実作品を目にしたのはたった一度だけ、しかもアートフェアの会場でおよそ一点しか眺めていないのだから。それにも関わらずこのような思い切った企画に結びつけたのには、彼の制作スタンスや作品の確かさがプレゼンテーションの随所に感じられたからに他ならない。本来なら避けてもおかしくないこのような経緯での東京発表は、かくしてギャンブルの要素も孕みつつ、期待も高いのである。 極めて乱暴に言ってしまえば、彼の絵は日本画であるのだろう。だがそこには私達の住むこの世界の息づかいと、痛い程の切なさと、郷愁とも呼べる土着の匂いが充満しており、およそ現代日本美術における日本画の在り様に留まらない新鮮な驚きを感じさせる。彼が佐賀県出身で、都会とは言いがたい環境で生まれ育ったことがどれほど影響しているのかは定かではないが、彼の画面には田舎の風景も都会の風景も等距離で向かい合っている事が見て取れる。インターネットの普及やグローバリズムの影響で、もはや現代において本当の意味でのローカル地点が存在し得なくなりつつある中、日本の各地方もその匂いを均質化させながら、一方でそれぞれの存在意義を見直しつつ、改めて独特の文化や風土を確かめている。彼が制作活動の発展に伴い東京に出る機会が増えた事は、自然な事として絵の中にも現れ、鑑賞者にも違和感なく受け入れられるものであると信じているが、それは一重に彼の世の中に向ける視点が定まっているからであり、目に映る事象全てが現実でありながらも、随所に既視感と違和感の両方を兼ね備えた一瞬が存在することを見逃さないからである。それを「夢」や「幻」と言う事もできようが、決して空想から生じた景色ではないため、まさに今回の個展タイトルのごとく「ゆめか、うつつか、まぼろしか」となるのである。全ては現実に根ざした瞬間の連続に潜む、例え様の無い光景であり、作家の意識は覚醒しつつ幻惑されている。「白昼夢」と言っても差し支えないだろう。 私が最初に強い印象を持ったのは、2008 年作のシリーズ「Tunnel」である。その名の通り、トンネルの先に見えて来る明るい光景に高揚感と微かな不安を漂わせた、寡黙で叙情的な作品群であるのだが、かつて川端康成が表したように、トンネルという空間は人間の深層意識が眠る場所でありながら、やがて必ずや出口に辿り着き、否応無しに別の場所としての現実を突きつけられるものでもある。いわば日常の中に存在する異空間への抜け道の様でもあり、主人公が今までの環境から確実に新しい次元へと移行することを予感させる。まさに酒井龍一にとっての絵画の旅路がそうであるように。 続く同年の「向こう側」シリーズや「観測者」「Daydream」(まさに白昼夢)では、トンネルを抜けた先の雪国よろしく、光と音と新しい発見がキラキラと粒のように描かれており、自然のと人間の共存する状景の瑞々しさは精神の高揚を感じずにはいられない。 そして2009 年には彼の目の前に様々な事象が去来する。ここで注目したいのは彼が都会の風景をあくまで客観的に取込み、傍観者としての立場を崩していない点である。だからこそ「光る家」のように、我々が見飽きた深夜のファミリーレストランとおぼしき建物が、まるで初めて夜に散歩に出かけた子供の目に映る感動そのままに、遊園地の回転木馬よろしく活写されるのである。「Window」「Platform」など電車をモチーフにしているのも近作の特徴であり、そこには都会に住む人々の帰巣本能と寄る辺無さを無意識に感じさせる闇が、効果的に画面の印象を象っている。そして「どこへ行くか」「Gate」といった、目の前に広がる可能性と怖れを象徴的に描く心象風景達。 精神世界と都市文明、自然と人間。本来はそれらは一体となり存在し得るものであるはずだが、気ぜわしい現代生活においてはそれらがバラバラに散逸し、私達は迷う。酒井龍一は絵を描きながらその迷いから逃げず、真っすぐに進んでいるからこそ気持ち良いのだろう。 全文提供: gallery neutron |
最終更新 2010年 2月 03日 |