川辺ナホ:Blüthenstaub |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2012年 4月 12日 |
ポートギャラリーTでは、2012年4月7日(土)より川辺ナホの新作展を開催いたします。 川辺ナホは、1999年武蔵野美術大学映像学科卒業後、2001年にDAAD留学奨学金を得て渡独。現在ハンブルグを拠点に精力的に活動しています。5月にもドイツ・ボンでの展覧が決定し、発表ごとに期待と信頼を集めているアーティストの一人です。ヨーロッパでの高い評価に比べ、日本での発表はまだ少なく、当画廊の他、2011年3月に資生堂が主催する「shiseido art egg」の入賞者展で銀座の資生堂ギャラリーに登場しましたが、会期の大半が東日本大震災で中止となり、ドイツへ戻りました。その後、作品『光と問い#1』をはじめ、「光」そのものの本質と多義的な解釈を生む作品を発表しています。川辺といえば、抽象美ともいえるループ映像作品が主たる技法でしたが、近年はさらに立体造形やドローイングを吹き込むインスタレーションを独自の視覚表現法として獲得してきました。今回、2年ぶり2度目の個展となる本展では、川辺作品に一貫して取り込まれてきた光や現象、私たちの実存や行方を問うインスタレーション『Blüthenstaub』を発表します。 さて、川辺のいまの関心ごとの1つに「作家の身体性」があると言います。今回の個展ではビデオ作品と共に、写真作品も出展する興味深い展開となります。 『最近、作家の身体性に興味がある。画家の友人と最近よく話すからかもしれない。画家がキャンバスに向き合う時、その身体は 道具として使われる。身体は時に作れる作品を限定もしてしまう。どのくらい左右に腕が伸びるのか、梯子がなくてもどのくらい上まで手が届くのか、そして左手も右手と同じくらいに動くのか、などなど。その身体的な限界に画家はもどかしい思いをすることもあるだろうけれど、思い通りに動かない身体が、頭では思っても見なかった「現象」を勝手に生み出すこともある。 カメラを使って、己の視線を結晶させたい人たちの身体性はいったいどこにあるのだろう。(カメラに何かを収めたいならば、その「何か」のある場所に行って、それにレンズを向ける。これは明らかにカメラに付随する身体性である。でもそれ以外には?)』(川辺ナホ・2012年2月テキストより抜粋) もともとビデオ作品を作り始めた動機を『現象を実直に記録できる媒体』と語る川辺にとって、アナログカメラを使った制作への流れは、マテリアル(光)への関心と、メディウム(カメラ・白黒のネガ)へ身を預けるような信頼感が結合した営みとも言え、作家としての着実な歩みが見えます。 展覧会のタイトルとなっている『Blüthenstaub』(ブリューテンシュタウブ)は、未完の小説「青い花」で有名なドイツロマン派の詩人ノヴァーリスの、文章になるかならない覚え書きに付された題名からの引用です。また、ドイツの古語で「花粉」という意味を持ち、繰り返し口にしていると小さな呪文のように不思議に響き出します。 これまでも川辺の作品は、時空を浮遊する不思議な感じをまといながら、色彩やフォルムが織りなす抽象的な美しさを差しだしながら、私たちの目を引き寄せてきました。川辺が見るという行為を繰り返し思考し直すのは、かなりの解釈が視覚をたよりにされているからでしょう。私たちは、なぜ、いま、ここに存在しているのか?私たちは、どこから来て、どこへ行くのか? 川辺ナホ展『Blüthenstaub』へのご来廊をお待ちしています。 [作家コメント] その昔、まだ東京で学生だった頃、暗室作業が嫌いではなかった。 液体の中で印画紙を揺らしていると、徐々に図像が浮き上がってくる。その様子を暗号のようだと思った。 ゆっくりと秘密が暴かれてゆくようでうっとりとしたことを覚えている。 出来上がった写真よりも、むしろ図像が浮かび上がってくる現象とそれを定着させるというケミカルな過程の方に心が躍った。 ビデオ作品を作り始めたのも、ビデオが「現象」を実直に記録できる媒体であったからかもしれない。 話は変わるけれど、最近、作家の身体性に興味がある。画家の友人と最近よく話すからかもしれない。画家がキャンバスに向き合う時、その身体は 道具として使われる。身体は時に作れる作品を限定もしてしまう。どのくらい左右に腕が伸びるのか、梯子がなくてもどのくらい上まで手が届 くのか、そして左手も右手と同じくらいに動くのか、などなど。その身体的な限界に画家はもどかしい思いをすることもあるだろうけれど、思い通りに動かない身体が、頭では思っても見なかった「現象」を勝手に 生み出すこともある。 カメラを使って、己の視線を結晶させたい人たちの身体性はいったいどこにあるのだろう。(カメラに何かを収めたいならば、その「何か」のある場所に行って、それにレンズを向ける。これは明らかにカメラに付随する身体性である。でもそれ以外には?) デジタルカメラやフォトショップで自分の思い描いた通りの イメージを作り上げていくということは、構図、明るさ、色合い、選択に次ぐ選択で、意図したこと以外のものを排除してゆく。偶然性を排除していくことは、 どんどんと身体から眼だけはなれていってしまう行為な気がした。私は自分の思い通りの世界をカメラに収めたいわけではないのだ。できれば、それ以上のもの、思ってもみなかったものが写っているのを見てみたい。 郊外で、小さなクリスマスの飾りだけをたよりに暗闇にカメラを向けること、そして、どんな光をカメラが捉えたかは、フィルムを現像してみるまで分からな い。ラボにフィルムを渡して、現像には1日しかかからないけれど、その時間はまるで贈り物を待つような気持ちになった。 ある人が、ハッセルブラッドで写真を撮るのが好きなのは、手のひらの中に光が溜まってゆくような気がするからだと言っていた。これも、ひとつの身体的なカメラとの関係だ。では、35mmのカメラと私の関係はというと、世界の間にある無人地帯のような気がしている。たった4cm程度の幅ではあるけれど、けっこう重たく、時に思ってもいなかったほどに肥沃でもある。 [作家プロフィール] 全文提供:Port Gallery T 会期:2012年4月7日(土)~2012年5月5日(土) |
最終更新 2012年 4月 07日 |