内海聖史:さくらのなかりせば |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2011年 2月 16日 |
内海聖史は第1回shiseido art eggをはじめ、東京都現代美術館の「MOTアニュアル2004」や「屋上庭園」、静岡県立美術館の「風景ルルル〜わたしのソトガワとのかかわり方〜」等々目覚ましい活躍をしている作家です。 彼の作品には、筆跡の集積にて描かれるものと、押しつぶした絵の具によって描かれるものがあり、ギャラリエアンドウ第1回目の展覧会「彼岸の色彩」(2007年)では260X380cmの大作を展示。近づけば絵具の物質感を感じ、離れてみると空間と絵具の美しさを認識させるものでした。 内海の作品は絵画、空間、物質から成り立っています。第2回目の展覧会「千手」(2009年)では鑑賞者が見上げる高い位置に絵画による色相環を造り、ギャラリーが色彩に包まれました。作品が置かれる空間、鑑賞者の立ち位置、視覚的記憶、思考等あらゆる面において鑑賞者が関わる事で成立する作品です。 今回は内海自身が4月に個展をする事が初めてだという事で、この季節ならではの展覧会にしたいと考えています。 展覧会タイトルも在原業平の歌「世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心も のどけからまし」より一文を借りて「さくらなかりせば」とし、春に桜が咲く事への悩ましいような心の沸き立ちにも似た絵画体験を鑑賞者と共有したいと考えています。 ※全文提供: ギャラリエ アンドウ 会期: 2011年4月5日(火)-2011年4月23日(土) |
最終更新 2011年 4月 05日 |
桜の美しさとは何だろうか。それを定義するのは難しいが、その1つに色彩があることは確かだろう。絵画もまた絵具の持つ色彩の美しさが人々を魅了してきた。つまり、花見も美術鑑賞も色彩を愛でる行為と言えるのかもしれない。桜咲く4月に開催された内海聖史の個展「さくらのなかりせば」はそんな色彩の強さ、美しさを体感できる展示である。
ギャラリーに入ると大画面のキャンヴァスから放たれるピンクの鮮やかさに足が立ち止まる。まるで満開の桜を前に足を止めてしまうように。
今展は『色彩の下2011-3』(2011年、oil on canvas、2054x5553mm)が1点のみ中央で湾曲するように展示されている。鑑賞者は大画面に包み込まれるように色彩を浴びる。色彩はピンクが主だが、青や緑、赤や白など多彩な色彩がグラデーションの中に見え隠れしつつ、全体はピンクへと統一されている。まるで花見をするように、画面に対して距離を変えながら見ていくと全体と細部で異なるイメージが紡がれだす。
また、照明の反射光が壁にあたり、壁面や空間全体がうっすらとピンク色に染まっている様は、さながら桜の花びらが地面へと降り注いでいるかのようだ。桜に例えるならば、花びらが1枚では白く、木々の集まりで見るとピンクに見えるように色の集積が空間全体を染め上げるようだ。ピンクは色幅が広く、空間全体に広がるような鮮やかさを湛えていることに気づく。
ところで、内海の作品はこれまで明確なイメージや言葉、色彩の名を用いてこなかった。だが、今展では初めて「さくら」という具体的な言葉を展覧会タイトルに冠している。しかし、会場で作品を見ればわかるように、実は「桜」が描かれているわけではない。ピンクという色彩が日本人にとって否応なく「桜」を喚起させてしまう色彩のため、内海はそれを避けるのではなく色彩が喚起させるイメージに寄り添うように今展の作品を制作した。例え描かれた色彩が「桜」という言葉を想起させ、心の襞に重なろうとも、桜とは異なる絵画独自の色彩表現が鑑賞者の眼を染め上げることだろう。
芭蕉の句で「さまざまのこと思ひ出す桜かな」という句がある。内海はさまざまな想起へと誘う桜のように絵画へまなざしを向けさせる。散り行く桜からは鮮やかな新緑の芽が出てきているが、ギャラリーで今しか見られない春の色彩を楽しみたい。桜とは違って、散ることがない絵画の美しさを見るために。